く。
 道で、彼はやはり帰りの姑《しゅうとめ》に偶然追いついた。声をかける前に、少時《しばらく》行一は姑を客観しながら歩いた。家人を往来で眺める珍しい心で。
「なんてしょんぼりしているんだろう」
 肩の表情は痛いたしかった。
「お帰り」
「あ。お帰り」姑はなにか呆《ぼ》けているような貌《かお》だった。
「疲れてますね。どうでした。見つかりましたか」
「気の進まない家ばかりでした。あなたの方は……」
 まあ帰ってからゆっくりと思って、今日見つけた家の少し混み入った条件を行一が話し躊《ためら》っていると、姑はおっ被《かぶ》せるように
「今日は珍しいものを見ましたよ」
 それは街の上で牛が仔を産んだ話だった。その牛は荷車を牽《ひ》く運送屋の牛であった。荷物を配達先へ届けると同時に産気づいて、運送屋や家の人が気を揉《も》むうちに、安やすと仔牛は産まれた。親牛は長いこと、夕方まで休息していた。が、姑がそれを見た頃には、蓆《むしろ》を敷き、その上に仔牛を載せた荷車に、もう親牛はついていた。
 行一は今日の美しかった夕焼雲を思い浮かべた!
「ぐるりに人がたくさん集まって見ていましたよ。提灯《ちょうちん》を借りて男が出て来ましてね。さ、どいてくれよと言って、前の人をどかせて牛を歩かせたんです――みんな見てました……」
 姑の貌《かお》は強い感動を抑えていた。行一は
「よしよし、よしよし」膨《ふく》らんで来る胸をそんな思いで緊めつけた。
「そいじゃ、先へ帰ります」
 買物があるという姑を八百屋の店に残して、彼は暗い星の冴えた小路へ急ぎ足で入った。



底本:「檸檬・ある心の風景」旺文社文庫、旺文社
   1972(昭和47)年12月10日初版発行
   1974(昭和49)年第4刷発行
入力:j.utiyama
校正:野口英司
1998年10月7日公開
2005年11月14日修正
青空文庫作成ファイル:
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