になってしまう。
 たとえばそれを故のない淡い憧憬《しょうけい》と言ったふうの気持、と名づけてみようか。誰かが「そうじゃないか」と尋ねてくれたとすれば彼はその名づけ方に賛成したかもしれない。しかし自分では「まだなにか」という気持がする。
 人種の異ったような人びとが住んでいて、この世と離れた生活を営んでいる。――そんなような所にも思える。とはいえそれはあまりお伽話《とぎばなし》めかした、ぴったりしないところがある。
 なにか外国の画で、あそこに似た所が描いてあったのが思い出せないためではないかとも思ってみる。それにはコンステイブルの画を一枚思い出している。やはりそれでもない。
 ではいったい何だろうか。このパノラマ風の眺めは何に限らず一種の美しさを添えるものである。しかし入江の眺めはそれに過ぎていた。そこに限って気韻が生動している。そんなふうに思えた。――
 空が秋らしく青空に澄む日には、海はその青よりやや温い深青に映った。白い雲がある時は海も白く光って見えた。今日は先ほどの入道雲が水平線の上へ拡がってザボンの内皮の色がして、海も入江の真近までその色に映っていた。今日も入江はいつものように謎をかくして静まっていた。
 見ていると、獣のようにこの城のはなから悲しい唸《うなり》声を出してみたいような気になるのも同じであった。息苦しいほど妙なものに思えた。
 夢で不思議な所へ行っていて、ここは来た覚えがあると思っている。――ちょうどそれに似た気持で、えたいの知れない想い出が湧いて来る。
「ああかかる日のかかるひととき」
「ああかかる日のかかるひととき」
 いつ用意したとも知れないそんな言葉が、ひらひらとひらめいた。――
「ハリケンハッチのオートバイ」
「ハリケンハッチのオートバイ」
 先ほどの女の子らしい声が峻《たかし》の足の下で次つぎに高く響いた。丸の内の街道を通ってゆくらしい自動自転車の爆音がきこえていた。
 この町のある医者がそれに乗って帰って来る時刻であった。その爆音を聞くと峻の家の近所にいる女の子は我勝ちに「ハリケンハッチのオートバイ」と叫ぶ。「オートバ」と言っている児もある。
 三階の旅館は日覆をいつの間にか外《はず》した。
 遠い物干台の赤い張物板ももう見つからなくなった。
 町の屋根からは煙。遠い山からは蜩《ひぐらし》。

     手品と花火

 これはまた別の日。
 夕飯と風呂を済ませて峻《たかし》は城へ登った。
 薄暮の空に、時どき、数里離れた市で花火をあげるのが見えた。気がつくと綿で包んだような音がかすかにしている。それが遠いので間の抜けた時に鳴った。いいものを見る、と彼は思っていた。
 ところへ十七ほどを頭《かしら》に三人連れの男の児が来た。これも食後の涼みらしかった。峻に気を兼ねてか静かに話をしている。
 口で教えるのにも気がひけたので、彼はわざと花火のあがる方を熱心なふりをして見ていた。
 末遠いパノラマのなかで、花火は星|水母《くらげ》ほどのさやけさに光っては消えた。海は暮れかけていたが、その方はまだ明るみが残っていた。
 しばらくすると少年達もそれに気がついた。彼は心の中で喜んだ。
「四十九」
「ああ。四十九」
 そんなことを言いあいながら、一度あがって次あがるまでの時間を数えている。彼はそれらの会話をきくともなしに聞いていた。
「××ちゃん。花は」
「フロラ」一番年のいったのがそんなに答えている。――

 城でのそれを憶い出しながら、彼は家へ帰って来た。家の近くまで来ると、隣家の人が峻《たかし》の顔を見た。そして慌《あわ》てたように
「帰っておいでなしたぞな」と家へ言い入れた。
 奇術が何とか座にかかっているのを見にゆこうかと言っていたのを、峻がぽっと出てしまったので騒いでいたのである。
「あ。どうも」と言うと、義兄《あに》は笑いながら
「はっきり言うとかんのがいかんのやさ」と姉に背負わせた。姉も笑いながら衣服を出しかけた。彼が城へ行っている間に姉も信子(義兄の妹)もこってり化粧をしていた。
 姉が義兄に
「あんた、扇子は?」
「衣嚢《かくし》にあるけど……」
「そうやな。あれも汚れてますで……」
 姉が合点合点などしてゆっくり捜しかけるのを、じゅうじゅうと音をさせて煙草を呑《の》んでいた兄は
「扇子なんかどうでもええわな。早う仕度《したく》しやんし」と言って煙管《きせる》の詰まったのを気にしていた。
 奥の間で信子の仕度を手伝ってやっていた義母《はは》が
「さあ、こんなはどうやな」と言って団扇《うちわ》を二三本寄せて持って来た。砂糖屋などが配って行った団扇である。
 姉が種々と衣服を着こなしているのを見ながら、彼は信子がどんな心持で、またどんなふうで着付けをしているだろうなど、奥の間の気配に心を
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