黝《くろず》んだ下葉と新しい若葉で、いいふうな緑色の容積を造っている。
 遠くに赤いポストが見える。
 乳母車なんとかと白くペンキで書いた屋根が見える。
 日をうけて赤い切地を張った張物板が、小さく屋根瓦の間に見える。――
 夜になると火の点《つ》いた町の大通りを、自転車でやって来た村の青年達が、大勢連れで遊廓《ゆうかく》の方へ乗ってゆく。店の若い衆なども浴衣がけで、昼見る時とはまるで異ったふうに身体をくねらせながら、白粉を塗った女をからかってゆく。――そうした町も今は屋根瓦の間へ挾まれてしまって、そのあたりに幟《のぼり》をたくさん立てて芝居小屋がそれと察しられるばかりである。
 西日を除けて、一階も二階も三階も、西の窓すっかり日覆《ひおおい》をした旅館がやや近くに見えた。どこからか材木を叩く音が――もともと高くもない音らしかったが、町の空へ「カーン、カーン」と反響した。
 次つぎ止まるひまなしにつくつく[#「つくつく」に傍点]法師が鳴いた。「文法の語尾の変化をやっているようだな」ふとそんなに思ってみて、聞いていると不思議に興が乗って来た。「チュクチュクチュク」と始めて「オーシ、チュクチュク」を繰り返す、そのうちにそれが「チュクチュク、オーシ」になったり「オーシ、チュクチュク」にもどったりして、しまいに「スットコチーヨ」「スットコチーヨ」になって「ジー」と鳴きやんでしまう。中途に横から「チュクチュク」とはじめるのが出て来る。するとまた一つのは「スットコチーヨ」を終わって「ジー」に移りかけている。三重四重、五重にも六重にも重なって鳴いている。
 峻《たかし》はこの間、やはりこの城跡のなかにある社《やしろ》の桜の木で法師蝉《ほうしぜみ》が鳴くのを、一尺ほどの間近で見た。華車《きゃしゃ》な骨に石鹸玉のような薄い羽根を張った、身体の小さい昆虫《こんちゅう》に、よくあんな高い音が出せるものだと、驚きながら見ていた。その高い音と関係があると言えば、ただその腹から尻尾《しっぽ》へかけての伸縮であった。柔毛《にこげ》の密生している、節を持った、その部分は、まるでエンジンのある部分のような正確さで動いていた。――その時の恰好が思い出せた。腹から尻尾へかけてのブリッとした膨《ふく》らみ。隅《すみ》ずみまで力ではち切ったような伸び縮み。――そしてふと蝉一匹の生物が無上にもったいないものだという気持に打たれた。
 時どき、先ほどの老人のようにやって来ては涼をいれ、景色を眺めてはまた立ってゆく人があった。
 峻がここへ来る時によく見る、亭《ちん》の中で昼寝をしたり海を眺めたりする人がまた来ていて、今日は子守娘と親しそうに話をしている。
 蝉取竿《せみとりざお》を持った子供があちこちする。虫籠を持たされた児《こ》は、時どき立ち留まっては籠の中を見、また竿の方を見ては小走りに随《つ》いてゆく。物を言わないでいて変に芝居のようなおもしろさが感じられる。
 またあちらでは女の子達が米つきばった[#「米つきばった」に傍点]を捕えては、「ねぎさん米つけ、何とか何とか」と言いながら米をつかせている。ねぎさん[#「ねぎさん」に傍点]というのはこの土地の言葉で神主《かんぬし》のことを言うのである。峻《たかし》は善良な長い顔の先に短い二本の触覚を持った、そう思えばいかにも神主めいたばった[#「ばった」に傍点]が、女の子に後脚を持たれて身動きのならないままに米をつくその恰好が呑気《のんき》なものに思い浮かんだ。
 女の子が追いかける草のなかを、ばったは二本の脚を伸ばし、日の光を羽根一ぱいに負いながら、何匹も飛び出した。
 時どき烟《けむり》を吐く煙突があって、田野はその辺《あた》りから展《ひら》けていた。レンブラントの素描めいた風景が散らばっている。
 黝《くろ》い木立。百姓家。街道。そして青田のなかに褪赭《たいしゃ》の煉瓦《れんが》の煙突。
 小さい軽便が海の方からやって来る。
 海からあがって来た風は軽便の煙を陸の方へ、その走る方へ吹きなびける。
 見ていると煙のようではなくて、煙の形を逆に固定したまま玩具の汽車が走っているようである。
 ササササと日が翳《かげ》る。風景の顔色が見る見る変わってゆく。
 遠く海岸に沿って斜に入り込んだ入江が見えた。――峻はこの城跡へ登るたび、幾度となくその入江を見るのが癖になっていた。
 海岸にしては大きい立木が所どころ繁っている。その蔭にちょっぴり人家の屋根が覗《のぞ》いている。そして入江には舟が舫《もや》っている気持。
 それはただそれだけの眺めであった。どこを取り立てて特別心を惹《ひ》くようなところはなかった。それでいて変に心が惹かれた。
 なにかある。ほんとうになにかがそこにある。と言ってその気持を口に出せば、もう空ぞらしいもの
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