「ひょっとしてあの時の痩我慢を破裂させているのかもしれない」そんなことを思って聞いていると、その火がつくような泣声が、なにか悲しいもののように峻には思えた。
昼と夜
彼はある日城の傍の崖の蔭に立派な井戸があるのを見つけた。
そこは昔の士《さむらい》の屋敷跡のように思えた。畑とも庭ともつかない地面には、梅の老木があったり南瓜《かぼちゃ》が植えてあったり紫蘇《しそ》があったりした。城の崖からは太い逞しい喬木《きょうぼく》や古い椿《つばき》が緑の衝立《ついたて》を作っていて、井戸はその蔭に坐っていた。
大きな井桁《いげた》、堂々とした石の組み様、がっしりしていて立派であった。
若い女の人が二人、洗濯物を大盥《おおだらい》で濯《すす》いでいた。
彼のいた所からは見えなかったが、その仕掛ははね[#「はね」に傍点]釣瓶《つるべ》になっているらしく、汲みあげられて来る水は大きい木製の釣瓶|桶《おけ》に溢れ、樹々の緑が瑞《みず》みずしく映っている。盥の方の女の人が待つふり[#「ふり」に傍点]をすると、釣瓶の方の女の人は水をあけた。盥の水が躍り出して水玉の虹がたつ。そこへも緑は影を映して、美しく洗われた花崗岩《かこうがん》の畳石の上を、また女の人の素足の上を水は豊かに流れる。
羨《うらや》ましい、素晴《すばら》しく幸福そうな眺めだった。涼しそうな緑の衝立の蔭。確かに清冽《せいれつ》で豊かな水。なんとなく魅せられた感じであった。
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きょうは青空よい天気
まえの家でも隣でも
水|汲《く》む洗う掛ける干す。
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国定教科書にあったのか小学唱歌にあったのか、少年の時に歌った歌の文句が憶《おも》い出された。その言葉には何のたくみも感ぜられなかったけれど、彼が少年だった時代、その歌によって抱いたしん[#「しん」に傍点]に朗らかな新鮮な想像が、思いがけず彼の胸におし寄せた。
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かあかあ烏《からす》が鳴いてゆく、
お寺の屋根へ、お宮の森へ、
かあかあ烏が鳴いてゆく。
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それには画がついていた。
また「四方」とかいう題で、子供が朝日の方を向いて手を拡げている図などの記憶が、次つぎ憶い出されて来た。
国定教科書の肉筆めいた楷書の活字。またなんという画家の手に成ったものか、角
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