のあちらに感ぜられるようになったのもこの土地へ来てからであった。そしてその思いにも落ちつき、新しい周囲にも心が馴染《なじ》んで来るにしたがって、峻には珍しく静かな心持がやって来るようになった。いつも都会に住み慣れ、ことに最近は心の休む隙もなかった後で、彼はなおさらこの静けさの中でうやうやしくなった。道を歩くのにもできるだけ疲れないように心掛ける。棘《とげ》一つ立てないようにしよう。指一本詰めないようにしよう。ほんの些細《ささい》なことがその日の幸福を左右する。――迷信に近いほどそんなことが思われた。そして旱《ひでり》の多かった夏にも雨が一度来、二度来、それがあがるたびごとにやや秋めいたものが肌に触れるように気候もなって来た。
そうした心の静けさとかすかな秋の先駆は、彼を部屋の中の書物や妄想《もうそう》にひきとめてはおかなかった。草や虫や雲や風景を眼の前へ据えて、ひそかに抑えて来た心を燃えさせる、――ただそのことだけが仕甲斐《しがい》のあることのように峻《たかし》には思えた。
「家の近所にお城跡がありまして峻の散歩にはちょうど良いと思います」姉が彼の母のもとへ寄来した手紙にこんなことが書いてあった。着いた翌日の夜。義兄と姉とその娘と四人ではじめてこの城跡へ登った。旱《ひでり》のためうんか[#「うんか」に傍点]がたくさん田に湧いたのを除虫燈で殺している。それがもうあと二三日だからというので、それを見にあがったのだった。平野は見渡す限り除虫燈の海だった。遠くになると星のように瞬《またた》いている。山の峡間《はざま》がぼう[#「ぼう」に傍点]と照らされて、そこから大河のように流れ出ている所もあった。彼はその異常な光景に昂奮《こうふん》して涙ぐんだ。風のない夜で涼みかたがた見物に来る町の人びとで城跡は賑《にぎ》わっていた。暗《やみ》のなかから白粉《おしろい》を厚く塗った町の娘達がはしゃいだ眼を光らせた。
今、空は悲しいまで晴れていた。そしてその下に町は甍《いらか》を並べていた。
白堊《はくあ》の小学校。土蔵作りの銀行。寺の屋根。そしてそこここ、西洋菓子の間に詰めてあるカンナ屑《くず》めいて、緑色の植物が家々の間から萌《も》え出ている。ある家の裏には芭蕉《ばしょう》の葉が垂れている。糸杉の巻きあがった葉も見える。重ね綿のような恰好《かっこう》に刈られた松も見える。みな
前へ
次へ
全21ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
梶井 基次郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング