はとぼけて見せた。そして自分から笑ってしまった。こんな笑い方をしたからにはもう後ろから歩いてゆくわけにはゆかなくなった。
「早う。気持が悪いわ。なあ。信ちゃん」
「……」笑いながら信子も点頭《うなず》いた。
芝居小屋のなかは思ったように蒸し暑かった。
水番というのか、銀杏返《いちょうがえ》しに結った、年の老《ふ》けた婦《おんな》が、座蒲団を数だけ持って、先に立ってばたばた敷いてしまった。平場《ひらば》の一番後ろで、峻《たかし》が左の端、中へ姉が来て、信子が右の端、後ろへ兄が座った。ちょうど幕間《まくあい》で、階下は七分通り詰まっていた。
先刻の婦《おんな》が煙草盆を持って来た。火が埋《うず》んであって、暑いのに気が利かなかった。立ち去らずにぐずぐずしている。何と言ったらいいか、この手の婦《おんな》特有な狡猾《ずる》い顔付で、眼をきょろきょろさせている。眼顔《めがお》で火鉢を指したり、そらしたり、兄の顔を盗み見たりする。こちらが見てよくわかっているのにと思い、財布の銀貨を袂《たもと》の中で出し悩みながら、彼はその無躾《ぶしつけ》に腹が立った。
義兄は落ちついてしまって、まるで無感覚である。
「へ、お火鉢」婦《おんな》はこんなことをそわそわ言ってのけて、忙しそうに揉《もみ》手をしながらまた眼をそらす。やっと銀貨が出て婦《おんな》は帰って行った。
やがて幕があがった。
日本人のようでない、皮膚の色が少し黒みがかった男が不熱心に道具を運んで来て、時どきじろじろと観客の方を見た。ぞんざいで、おもしろく思えなかった。それが済むと怪しげな名前の印度《インド》人が不作法なフロックコートを着て出て来た。何かわからない言葉で喋《しやべ》った。唾液をとばしている様子で、褪《さ》めた唇の両端に白く唾がたまっていた。
「なんて言ったの」姉がこんなに訊《き》いた。すると隣のよその人も彼の顔を見た。彼は閉口してしまった。
印度人は席へ下りて立会人を物色している。一人の男が腕をつかまれたまま、危う気な羞笑《はじわらい》をしていた。その男はとうとう舞台へ連れてゆかれた。
髪の毛を前へおろして、糊の寝た浴衣を着、暑いのに黒足袋を穿《は》いていた。にこにこして立っているのを、先ほどの男が椅子《いす》を持って来て坐らせた。
印度人は非道《ひど》いやつであった。
握手をしようと言って男
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