桜の樹の下には
梶井基次郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)選《よ》りに選つて

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)安全|剃刀《かみそり》

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(例)[#地から2字上げ](昭和三年十二月)
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 桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる!
 これは信じていいことなんだよ。何故つて、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことぢやないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だつた。しかしいま、やつとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる。これは信じていいことだ。

 どうして俺が毎晩家へ帰つて来る道で、俺の部屋の数ある道具のうちの、選《よ》りに選つてちつぽけな薄つぺらいもの、安全|剃刀《かみそり》の刃なんぞが、千里眼のやうに思ひ浮んで来るのか――お前はそれがわからないと云つたが――そして俺にもやはりそれがわからないのだが――それもこれもやつぱり同じやうなことにちがひない。

 一体どんな樹の花でも、所謂《いはゆる》真つ盛りといふ状態に達すると、あたりの空気のなかへ一種神秘な雰囲気を撒《ま》き散らすものだ。それは、よく廻つた独楽《こま》が完全な静止に澄むやうに、また、音楽の上手な演奏がきまつてなにかの幻覚を伴ふやうに、灼熱《しやくねつ》した生殖の幻覚させる後光のやうなものだ。それは人の心を撲《う》たずにはおかない、不思議な、生き生きとした、美しさだ。
 しかし、昨日、一昨日、俺の心をひどく陰気にしたものもそれなのだ。俺にはその美しさがなにか信じられないもののやうな気がした。俺は反対に不安になり、憂欝になり、空虚な気持になつた。しかし、俺はいまやつとわかつた。
 お前、この爛漫と咲き乱れてゐる桜の樹の下へ、一つ一つ屍体が埋まつてゐると想像して見るがいい。何が俺をそんなに不安にしてゐたかがお前には納得が行くだらう。
 馬のやうな屍体、犬猫のやうな屍体、そして人間のやうな屍体、屍体はみな腐爛して蛆《うじ》が湧き、堪らなく臭い。それでゐて水晶のやうな液をたらたらとたらしてゐる。桜の根は貪婪《どんらん》な蛸《たこ》のやうに、それを抱きかかへ、いそぎんちやくの食糸のやうな毛根を聚《あつ》めて、その液体を吸つてゐる。
 何があんな花弁を作り、何があんな蕋《ずゐ
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