いる。可哀《かわい》そうだなあと思う。ついでに、私の咳がやはりこんな風に聞こえるのだろうかと、私の分として聴いて見る。
先ほどから露路の上には盛んに白いものが往来している。これはこの露路だけとは云わない。表通りも夜更《よふ》けになるとこの通りである。これは猫だ。私はなぜこの町では猫がこんなに我物顔に道を歩くのか考えて見たことがある。それによると第一この町には犬がほとんどいないのである。犬を飼うのはもう少し余裕のある住宅である。その代り通りの家では商品を鼠《ねずみ》にやられないために大低猫を飼っている。犬がいなくて猫が多いのだから自然往来は猫が歩く。しかし、なんといっても、これは図々しい不思議な気のする深夜の風景にはちがいない。彼らはブールヴァールを歩く貴婦人のように悠々《ゆうゆう》と歩く。また市役所の測量工夫のように辻《つじ》から辻へ走ってゆくのである。
隣の物干しの暗い隅《すみ》でガサガサという音が聞こえる。セキセイだ。小鳥が流行《はや》った時分にはこの町では怪我人《けがにん》まで出した。「一体誰がはじめにそんなものを欲しいと云い出したんだ」と人びとが思う時分には、尾羽打ち枯らしたいろいろな鳥が雀《すずめ》に混って餌《えさ》を漁《あさ》りに来た。もうそれも来なくなった。そして隣りの物干しの隅には煤《すす》で黒くなった数匹のセキセイが生き残っているのである。昼間は誰もそれに注意を払おうともしない。ただ夜中になって変てこな物音をたてる生物になってしまったのである。
この時私は不意に驚ろいた。先ほどから露路をあちらへ行ったりこりこちらへ来たり、二匹の白猫が盛んに追っかけあいをしていたのであるが、この時ちょうど私の眼の下で、不意に彼らは小さな唸《うな》り声をあげて組打ちをはじめたのである。組打ちと云ってもそれは立って組打ちをしているのではない。寝転《ねころ》んで組打ちをしているのである。私は猫の交尾を見たことがあるがそれはこんなものではない。また仔猫《こねこ》同志がよくこんなにしてふざけているがそれでもないようである。なにかよくはわからないが、とにかくこれは非常に艶《なま》めかしい所作であることは事実である。私はじっとそれを眺《なが》めていた。遠くの方から夜警のつく棒の音がして来る。その音のほかには町からは何の物音もしない。静かだ。そして私の眼の下では彼らがやはりだ
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