たのを覚えているが、そういう空想を楽しむ気持も今の君にはないのかい。君は言った。わずか数|浬《カイリ》の遠さに過ぎない水平線を見て、『空と海とのたゆたいに』などと言って縹渺《ひょうびょう》とした無限感を起こしてしまうなんぞはコロンブス以前だ。われわれが海を愛し空想を愛するというなら一切はその水平線の彼方《かなた》にある。水平線を境としてそのあちら側へ滑り下りてゆく球面からほんとうに美しい海ははじまるんだ。君は言ったね。
布哇《ハワイ》が見える。印度《インド》洋が見える。月光に洗われたべンガル湾が見える。現在眼の前の海なんてものはそれに比べたらラフな素材にしか過ぎない。ただ地図を見てではこんな空想は浮かばないから、必要欠くべからざるという功績だけはあるが……多分そんな趣旨だったね。ご高説だったが……
「――君は僕の気を悪くしようと思っているのか。そう言えば君の顔は僕が毎晩夢のなかで大声をあげて追払うえびす[#「えびす」に傍点]三郎に似ている。そういう俗悪な精神になるのは止し給《たま》え。
僕の思っている海はそんな海じゃないんだ。そんな既に結核に冒されてしまったような風景でもなければ、
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