かつたといふのは、かなりの距離のため花の色とあたりの緑の色とのけぢめが薄くなつてゐたからだ。そればかりではない。それの咲いてゐる場所は絶望的に高い梢だつた。そこは喬《たか》い欅や樫や椎の木にまじつて椋の木や櫻の木などが鬱蒼と溪から山腹を覆つてゐた。藤はその梢の一つへ咲いて出たのだ。日光のなかへ! 晩春の午後の日が倦怠に似た感情で山腹を照らしてゐるとき、なんといふ靜かさでそれは咲いてゐたらう!
 誰れにもこの發見を告げるまい。なぜならこれはこれを自分で見つけた人ばかりが、よろこべるよろこびだから。人に知られず咲いてゐる藤の花、自分も人に知られず眺めよう。私はさう思つた。そして毎日あかず眺めてゐた。
 私の窓の前の溪には瑠璃《るり》がいつも一羽啼いてゐる。翡翠《かはせみ》は光のやうに飛去り、川烏は電報配達夫のやうな一直線。頬白は散髮屋の鋏のやうにせはしく、四十雀《しじふから》はけたたましいアイアムビツク。さうだのに、この瑠璃は終日溪を飛去らず、自ら自らの聲をたのしんでゐるやうに永い午後の倦怠を歌つてゐる。
 しかし、そのうちに日はまはり、溪向ふの山は徐《おもむ》ろに日影のなかに沈んでゆく。するといままで日に飽いてゐた山の側面は、溪を滿たして來る蒼い空氣をどんなに恐れはじめることだらう。……(缺)



底本:「現代日本文學全集 43」筑摩書房
   1954(昭和29)年5月25日発行
※最終段落のところ、底本の編集部注として「「溪を……」以下の句は消されてゐた。」と書かれていました。
入力:川向直樹
校正:小林繁雄
2003年12月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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