質の不可侵性を無視して風景のなかに滲透してゆく、若しくは同一の空間に二個の系統の風景の共存する。
また高い天蓋の隙間から幾つもの偶然を貫いて陰濕な叢《くさむら》へ屆いて來る木洩《こも》れ陽《び》は掌のやうな小宇宙を寫し出した。しかし木洩れ陽程氣まぐれなものはない。それら小宇宙の靜かな悲しさにも拘らず鬼火のやうに、あすこに燃えてゐたかと思へばもうこゝに消えてゐるのだ。
この徑を歩いて來ると私の心は何時とはなく靜まる。へんに靜まつて來る。太陽は空にたゆまない飛翔を續けてゐる。自然はその直射を身體一ぱいにうけてゐる。その外界のありさまが遠い祭りのやうに思ひなされる。
すると私は幽かな物音を耳にするのだ。音といふものは、それが遠くなり杳《はる》かになると共に、カスタネツトの音も車の轣轆《れきろく》も、人の話聲も、なにもかもが音色を同じくしてゆく。其處では健全な聽覺でも錯覺にひきこまれ、遠近法を失つてしまふ。そしてあたりに氣がついて見れば、其處が既に今まで音の背景としてゐた靜けさといふ渺々とした海だといふことに氣がつく。
その徑にきこえて來る幽かな音にしてもさうだ。私はそれを私の心のなかに誕生して來るらしい希望かとも思ふ。遠い街道を通つてゐるなにかかとも思ふ。しかし私が間もなく近づくにつれ、それは小さい水のせゝらぎの音であることを聽きわける。だが、私の目はなにも發見することが出來ない。濕つた杉の根方には鳶尾《いちはつ》の花が咲いてゐる。其處にはなにもない。どこにもなにもない。たゞ小さい水のせゝらぎの音が眞近にきこえるのだ。するとこの私の眼を裏切る音が深祕な感情を持つて聽こえはじめる。しかし私は全く迂濶《うくわつ》だつたのだ。叢のなかには地面の僅な傾斜に沿つて、杉林の奧の方から一本の樋が通つてゐる。色の朽ちた丸竹の樋が。
水音と一緒に鳴つてゐた深祕な感情は止んでしまふ。しかし、その音のなんといふ美しさだらう。私はそれに聽きほれるのだ。
しかし私はその美しさのなかにまだ鳴りやまない神祕があるのを聽きわける。「なぜだらう。なぜこんなに一種人を惑亂させるやうな美しさに響くのだらう」私にはわからない。暫くして私はそこを立去る。
私がはじめにこの徑に一つのたのしみを持つてゐると云つたのはこの樋のなかのせゝらぎのことだ。氣がついた最初の日から幾度私はそのそばに立ち、その音に耳を傾けたことか、しかしその不可思議な美しさを證據だてるどんな美しい思想も湧いては來なかつた。
私はかうも考へてみた。その音は通常音が人に與へる物的證據を可見的な風景のなかに持つてゐないからかと。即ちその音を補足する水の運動が見えないからかと。
すると私はその樋が目にはいらなかつた前の、音のもとを探してゐるときの深祕に逆戻りしてゐるのだ。しかし今はその階段よりは一歩進んでゐる。その音を補足する視覺的な運動のかはりに樋といふもので補足が出來てゐる。そしてまだ以前のやうな神祕が殘つてゐるとすればそれは樋が未だ視的證據ではないからだ。それは知的證據にしか過ぎない。すると知識と視覺との間にはあんなにも美しい神祕が存在するのか。
私は以前に芭蕉の
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霧時雨《きりしぐれ》不二《ふじ》を見ぬ日ぞ面白き
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の句に非常に胸を打たれたことを思ひ出した。さうかも知れない。
しかしさう思つてもこの音の不思議な美しさには變りがない。朽ちた色の樋を見つめながら私は心に激しい情熱の高まつてゆくのを感じる。どうしようと云ふのか。探究の鶴嘴がよしやこの樋を碎いて、なかに流れてゐる水が光のなかへ曝されようと、この神祕は解けないのだ。しかもこの美しさは壞されてしまふであらう。私は深い絶望を感じる。そして情熱はこの絶望にますます驅りたてられてゆく。どうしようと云ふのか。
そのうちに私は自分の運命をその音のなかへ感じるやうになつた。するとその情熱は戀愛に、絶望は死に、私はそのあこがれと惱みに耳を傾けてゐるやうに思へた。
どんな説明を私の心が試みても駄目であつたことがわかつた。その音はなにかの象徴として鳴つてゐたのだ。そして私は此頃それをますますはつきりと感じて來る。
第三話 斷片
藤はあなたの窓からも見える。私の窓から見える藤の花は溪向ふの高い木に咲いた。それを發見したのは此の間のことだつた。それは發見だつたのだ。たとへばあなたの窓から見えるのは庭に作つた藤棚の藤だ。それは咲くより前に蕾がさがり、その以前には若葉が花を豫告する。
ところが私の窓では、此の間の或る日ほんの不圖した拍子に、思ひがけないところに咲いてゐるのが見つかつたのだ。それは既に咲いてゐた。窓から毎日眺めてゐる風景のなかに既に起つてゐた現象を、私がそのときまで氣がつかな
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