を持ってゆかなければならない。月夜というものは提灯の要《い》らない夜ということを意味するのだ。――こうした発見は都会から不意に山間へ行ったものの闇を知る第一|階梯《かいてい》である。
私は好んで闇のなかへ出かけた。溪ぎわの大きな椎《しい》の木の下に立って遠い街道の孤独の電燈を眺めた。深い闇のなかから遠い小さな光を跳めるほど感傷的なものはないだろう。私はその光がはるばるやって来て、闇のなかの私の着物をほのかに染めているのを知った。またあるところでは溪の闇へ向かって一心に石を投げた。闇のなかには一本の柚《ゆず》の木があったのである。石が葉を分けて戞々《かつかつ》と崖へ当った。ひとしきりすると闇のなかからは芳烈な柚の匂いが立ち騰《のぼ》って来た。
こうしたことは療養地の身を噛むような孤独と切り離せるものではない。あるときは岬の港町へゆく自動車に乗って、わざと薄暮の峠へ私自身を遺棄された。深い溪谷が闇のなかへ沈むのを見た。夜が更けて来るにしたがって黒い山々の尾根が古い地球の骨のように見えて来た。彼らは私のいるのも知らないで話し出した。
「おい。いつまで俺達はこんなことをしていなきゃならないんだ」
私はその療養地の一本の闇の街道を今も新しい印象で思い出す。それは溪《たに》の下流にあった一軒の旅館から上流の私の旅館まで帰って来る道であった。溪に沿って道は少し上りになっている。三四町もあったであろうか。その間にはごく稀にしか電燈がついていなかった。今でもその数が数えられるように思うくらいだ。最初の電燈は旅館から街道へ出たところにあった。夏はそれに虫がたくさん集まって来ていた。一匹の青蛙《あおがえる》がいつもそこにいた。電燈の真下の電柱にいつもぴったりと身をつけているのである。しばらく見ていると、その青蛙はきまったように後足を変なふうに曲げて、背中を掻《か》く模《ま》ねをした。電燈から落ちて来る小虫がひっつくのかもしれない。いかにも五月蠅《うるさ》そうにそれをやるのである。私はよくそれを眺めて立ち留っていた。いつも夜|更《ふ》けでいかにも静かな眺めであった。
しばらく行くと橋がある。その上に立って溪の上流の方を眺めると、黒ぐろとした山が空の正面に立ち塞《ふさ》がっていた。その中腹に一箇の電燈がついていて、その光がなんとなしに恐怖を呼び起こした。バァーンとシンバルを叩いたよう
前へ
次へ
全5ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
梶井 基次郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング