てゆく。もはや自分がある「高さ」にいるということにさえブルブル慄えずにはいられない。「落下」から常に自分を守ってくれていた爪がもはやないからである。彼はよたよたと歩く別の動物になってしまう。遂にそれさえしなくなる。絶望! そして絶え間のない恐怖の夢を見ながら、物を食べる元気さえ失せて、遂には――死んでしまう。
爪のない猫! こんな、便《たよ》りない、哀れな心持のものがあろうか! 空想を失ってしまった詩人、早発性|痴呆《ちほう》に陥った天才にも似ている!
この空想はいつも私を悲しくする。その全き悲しみのために、この結末の妥当であるかどうかということさえ、私にとっては問題ではなくなってしまう。しかし、はたして、爪を抜かれた猫はどうなるのだろう。眼を抜かれても、髭《ひげ》を抜かれても猫は生きているにちがいない。しかし、柔らかい蹠《あしのうら》の、鞘のなかに隠された、鉤《かぎ》のように曲った、匕首《あいくち》のように鋭い爪! これがこの動物の活力であり、智慧《ちえ》であり、精霊であり、一切であることを私は信じて疑わないのである。
ある日私は奇妙な夢を見た。
X――という女の人の私室で
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