物でしたら燐寸がありますよ」
次にはそう言うつもりだったのです。しかし落し物ではなさそうだと悟《さと》った以上、この言葉はその人影に話しかける私の手段に過ぎませんでした。
最初の言葉でその人は私の方を振り向きました。「のっぺらぽー」そんなことを不知不識《しらずしらず》の間に思っていましたので、それは私にとって非常に怖ろしい瞬間でした。
月光がその人の高い鼻を滑りました。私はその人の深い瞳を見ました。と、その顔は、なにか極《き》まり悪気な貌に変わってゆきました。
「なんでもないんです」
澄んだ声でした。そして微笑がその口のあたりに漾《ただよ》いました。
私とK君とが口を利いたのは、こんなふうな奇異な事件がそのはじまりでした。そして私達はその夜から親しい間柄になったのです。
しばらくして私達は再び私の腰かけていた漁船のとも[#「とも」に傍点]へ返りました。そして、
「ほんとうにいったい何をしていたんです」
というようなことから、K君はぼつぼつそのことを説き明かしてくれました。でも、はじめの間はなにか躊躇《ちゅうちょ》していたようですけれど。
K君は自分の影を見ていた、と申し
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