わずかの身体の運動で立ち去らせるということは、わけのわからないその相手をほとんど懐疑に陥れることによって諦めさすというような切羽《せっぱ》つまった方法を意味していた。しかしそれがやっとのことで成功したと思うと、方向を変えた猫は今度はのそのそと吉田の寝床の上へあがってそこで丸くなって毛を舐《な》めはじめた。そこへ行けばもう吉田にはどうすることもできない場所である。薄氷を踏むような吉田の呼吸がにわかにずしり[#「ずしり」に傍点]と重くなった。吉田はいよいよ母親を起こそうかどうしようかということで抑えていた癇癪《かんしゃく》を昂《たか》ぶらせはじめた。吉田にとってはそれを辛抱することはできなくないことかもしれなかった。しかしその辛抱をしている間はたとえ寝たか寝ないかわからないような睡眠ではあったが、その可能性が全然なくなってしまうことを考えなければならなかった。そしてそれをいつまで持ち耐えなければならないかということはまったく猫次第であり、いつ起きるかしれない母親次第だと思うと、どうしてもそんな馬鹿馬鹿しい辛抱はしきれない気がするのだった。しかし母親を起こすことを考えると、こんな感情を抑えておそらく何度も呼ばなければならないだろうという気持だけでも吉田はまったく大儀な気になってしまうのだった。――しばらくして吉田はこの間から自分で起こしたことのなかった身体をじりじり起こしはじめた。そして床の上へやっと起きかえったかと思うと、寝床の上に丸くなって寝ている猫をむんずと掴《つか》まえた。吉田の身体はそれだけの運動でもう浪のように不安が揺れはじめた。しかし吉田はもうどうすることもできないので、いきなりそれをそれの這入《はい》って来た部屋の隅《すみ》へ「二度と手間のかからないように」叩きつけた。そして自分は寝床の上であぐらをかいてそのあとの恐ろしい呼吸困難に身を委《まか》せたのだった。
二
しかし吉田のそんな苦しみもだんだん耐えがたいようなものではなくなって来た。吉田は自分にやっと睡眠らしい睡眠ができるようになり、「今度はだいぶんひどい目に会った」ということを思うことができるようになると、やっと苦しかった二週間ほどのことが頭へのぼって来た。それは思想もなにもないただ荒々しい岩石の重畳する風景だった。しかしそのなかでも最もひどかった咳の苦しみの最中に、いつも自分の頭へ
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