いてあることがみなそれぞれの重要さで活きてゐるといふことである。それぞれの重要さで作品を活かしてゐるといふことである。生硬な論文や、強い言葉の竝列がそのまま戰死してゐるやうな小説から、このやうな小説へやつて來ると、自づから藝術圈内へはひつて來たことが納得される。描寫が想像をなだらかに誘つてゆく。――ところで私は一體この作品からどんな想像を得たのであるか。
 一言にして云へば一つの「世態」。――これは「世態人情」の世態であるが、作者の階級的な立場にも拘はらず、私にはその感じが非常に強かつた。これには「旦那さま」が「彼」になつたので驚ろいてゐるといふやうな經濟鬪爭の最初のシヨツクにあふ少女を作者が捕へて來たことに、既に題材的な制限があるのであるが、それにしてもなほ、現實を剔抉することの不足、主觀を書き込むことの不足が、この作品にそのやうな印象を與へるやうになつたことは爭へないのである。作者はこれが一つの世態の描寫、新らしい「浮世繪」として見られることには、必ずや大きい不滿があるだらう。
 しかし、ともあれ、ここには生きた生活が――書かれてある感情のみな動いてゐる描寫がある。定跡にあてはめて
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