れが回想といふもののとる最も自然な形態にはちがひないのだ。たとへて云つて見れば、田舍のお婆さんが病院へ來て自分の病氣を醫者に話してゐるときの説話法のやうなもので、それがまた最もインテイメイトな話し方でもあるのだ。實際このインテイメイトなプルウストの話し方は佛蘭西人の生活や生活感情と云つたものを、これまで僕達が佛蘭西の小説を讀んで親しんでゐたより以上に、よりリアルに、僕達に近づけたので、僕達はさう云つた生活のデイテイルに限りのない親しさを感じる一方、またこれまでにない拒絶の感情をもうけとるのだ。僕は一度ヴアイオリン彈きのクライスラーが舞臺にあらはれたのを見て、まるで狼が洋服を着て出て來たやうな大變「エトランジエ」の感じを起したことがあるが、こんどの感じもそれで、プルウストが彼の祖父さんや祖母さんをより生き生きと書けば書くほどその同じ「エトランジエ」の姿がくつきりして來る。このことはまた彼等の生活の敍述が必然僕達に縁のない佛蘭西人の信仰に固有な聖人の名だとか、教會の建物のこまごました部分の名だとか、さう云つたものの非常に多くを伴つて來ることからでも起り得るのだとも思ふ。
 プルウストの文章
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