いふものに、あまりにも密接に自己を通して馴染すぎ、知りすぎてしまつてゐて、畫を見るよりさきに、もう澤山といふ氣持に、しらずしらずなつてしまつてゐるのだ。ゐるのだといつてわるければ、ゐるのだらうといつてもよい。だが、そこに、餘裕といふものがなんとなくとぼしいといふ氣がする。ものを見直すといふことを、直視するのをきらふといふ弊を、なにとやら如實に語つてゐるかと思ふ。で、また、もしさうでなければ、美に對しての感じがすこぶる鈍いといふことになる。しかし、ちと恐ろしいことだとわたしは教へられたものがある。
これが、殊に、ただ氣忙しさに、一生を怱忙と暮す人々ならば、氣のつかぬもあたりまへのことで、こんなことをいふのは、テンから間違つてゐることだが、すくなくも今ここにいふ人たちは、さうしたことに關心のない人たちではないので、ちよいと首を捻つたわけだが、もとより何にも口にしないで、じつと心の眼で見ていつた人は幾人かあらう、口にするのを嫌味にさへ思ふ人たちも多いであらう。だがまた、それとはあまりにかけ離れた、實につまらない人事には、これはまたあまりに敏感すぎる人の多いのも事實だ。
ここに、若い男の例を除外とする。なぜなれば、彼等がわたしの前で謹んでゐてくれる事をわたくしはよく知つてゐる。そこで、美術に對してまでおとなしくしてゐるのだと思ふ。これは、若い女とは反對に、シヤガールの名畫であらうとなからうと目をひかれないわけはないであらうから――
[#地から2字上げ](「名古屋新聞」昭和十一年一月十二日)
底本:「桃」中央公論社
1939(昭和14)年2月10日発行
初出:「名古屋新聞」
1936(昭和11)年1月12日
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2009年1月17日作成
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