は、柔らかい腕をゆるゆると巻きつけていって、やがてキュッと引緊《ひきし》めるようなところがある。春の夜に降る雨のように、人の心を溶かしてしまうようなところがある。夢心地に曳摺《ひきず》っていって、ひょいと突離《つきはな》す。突はなされた魂が痛まぬほどの、コツ[#「コツ」に傍点]のある手荒《てあら》さである。夢からさめてしめやかな木犀《もくせい》の香《か》に頬《ほお》をうたれたような、初秋の冷やかさほどで、むしろ快感のある突はなし加減だ。おのが情熱の行方《ゆくえ》をさびしく見送っている中年者が、生活に不自由なく、境遇がよぎなくおさえている性の奔放――とでもいうものを撫《な》でさすられるように、まだ冷めきらぬ青春のうずき[#「うずき」に傍点]を思いおこさせられるのは、決して悪い心地のものではなかったであろう。呂昇は巧みにそれらの弱点を突いて、情緒をさわがせ、酔わし、彼らの胸の埋火《うずみび》を掻起《かきおこ》させ、そこへぴたりと融合する、情熱の挽歌《ばんか》を伴奏したのである。崇拝者が彼女の肉声と、彼女の語る節でなければならないように渇仰したのも、頷《うなず》かれることであろう。
彼女は実に如才ない。綾之助が初恋の情操を守り、貞淑な石井夫人として、また三人の娘の慈母として、高座に媚《こび》を売らぬ見識をもつのと並べて、呂昇の美事《びじ》は、呂昇が芸の人としての如才なさ、あれほどの盛名があればとかく高慢になりがちなものであろうを、すこしもそうしたかげの見られないことである。彼女は実に贔屓へ対して如才なく座敷を勤める。私はある時、彼女の贔屓連が催した義太夫会のおり、忠臣蔵が出たとき役々《やくやく》によって語り手が違い、平右衛門など下手《しもて》から出て山台《やまだい》の下で語ったおり、彼女もお仲間に引出されて迷惑そうな顔もせずにこにこ[#「にこにこ」に傍点]して語っていたのを思いだした。またある時は名門の出の某男爵が濡衣《ぬれぎぬ》に扮したおり、彼女は八重垣姫《やえがきひめ》を振りあてられて真面目《まじめ》に化粧《けわ》い衣装をして、自ら「はじかき姫」だと言っていたことをも思いだす。そのおりも有楽座の出席時間になると急遽《きゅうきょ》として鬘《かつら》をぬいで急いでいった。そして済ませると直ぐに戻って来て興を逸《そ》らさぬようにと勤めていた。彼女が可愛がられるのも理由のないことではない。
彼女の水々しい色白の丸顔とあの声を聴いていると、生れが明治六年だとはどうしても嘘のような気がする。来るたびに若くなって来るとは御定連《ごじょうれん》でさえも洩らす讃美である。彼女の生活が、芸術のためによって生きる意義を見出《みいだ》すとき、彼女が永遠に若き生命の所有者であることを認めなければなるまい。私は思う、彼女はこの後ますます若くなるであろうという事を。そして彼女の芸はますます堂に入るであろうということを。
呂昇の日常は、恒《つね》におだやかなものであるという。彼女の心静かに住みなす家には、召使いの一両人が、彼女の思念を乱さぬようにとつつましやかに仕えているという事である。そして彼女は、たった一人の息子《むすこ》とも離れて、全く孤独の芸術郷に暮している。彼女は信仰のかたい聖徒《クリスチャン》であるという。当今《いま》こそ彼女に物質の憂いはないが、かなり売出しのころには悲惨を嘗《な》めたのであった。
私はすこしばかり彼女の経歴の断片を知っているが、彼女は名古屋に生れ永田なかというのが本名である。父は尾州《びしゅう》家の藩士であったが維新後塩物問屋をいとなんでいるうち彼女の十一歳のおりに病死してしまった。その後は母の手一つに養育され常磐津《ときわず》などをならっていた。その頃から声のよいのを褒《ほ》められていたが、彼女の生母よりも一人の叔父《おじ》が我事のように悦んで、自分の好きな浄瑠璃《じょうるり》を一くさりずつ慰み半分におしえていた。その叔父さんの友達に浪越《なごし》太夫という――後に師匠の名を買って、五代目土佐太夫になった人である。芸はさほど巧《うま》くはなかったそうであるが、弟子には彼女のほかに女子では竹本|小土佐《こどさ》が名をなしている――人があって、ある日訪れて来たおり、彼女は例の慰み半分に叔父さんから稽古《けいこ》されている最中であった。莨《タバコ》を喫《の》んでまっているうちに「是非この子を仕込んで見たい」と彼れは思ってしまった。
その相談を受けると誰れよりもさきに叔父さんが嬉しがってしまって、彼女の十三の時から浪越太夫の弟子にさせた。間もなく彼女は仲路《なかじ》という名がついて寄席《よせ》の高座へ出ることになった。そうこうする間に十五歳の春は来た。そして綾之助とはあまりに相違する悲しい恋をささげられた。彼女の十五の春を
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