》がふくまれている。彼女に凄《すご》さを求めるのは無理であろうが、紅筆《べにふで》をかんで、薄墨のにじみ書きに、思いあまる思案のそこをうちあけた文を繰広げてゆくような、纏綿《てんめん》たる情緒と、乱れそめた恋心と、人生の執着と、青春の悩みとが、聴くものを魅しつくしてしまう。綾之助は理解をもって心を語ろうとし、彼女は熱烈に悩ましい情のもつれを訴える。音量はもろともに豊富であるが、呂昇は弾語《ひきがた》りであるだけに急《せ》き込むところがある。得手《えて》でないところは早間《はやま》になるうれいがある。彼女の芸は鴈治郎《がんじろう》の芸と一脈共通のところがあるかと思われる。鴈治郎が町人の若旦那伊左衛門、亀屋忠兵衛、紙屋治兵衛に扮《ふん》してもっとも得意なように、呂昇は町人の若女房が殊更《ことさら》によい。ふっくりとしたなかに、ことに普通の女人であって、人間味のたっぷりと溢《あふ》れでた女性は、呂昇の専有といってもよい。
 東京で呂昇を待つ人は多く中流階級以上の人であるといっても差支《さしつか》えないであろう。その実例は呂昇が上京のおりの定席である、有楽座の座席を見渡せばすぐに知れる。はじめ有楽座が彼女を招いたおりの高給は、いまでは有楽座にとってはなんでもない額になってしまった。有楽座の弗箱《ドルばこ》といわれるほど、呂昇が出れば満員つづきなのである。そしてまた、呂昇にとっても有楽座は大事な席であった。彼女が東京で得た知己は、彼女に輝かしい光彩を添えたのはいうまでもない。それあればこそ、彼女は長年の苦境をぬけて、専属していた大阪の松の亭からはなれ、自由になるようにもなり、阪地の名ある太夫の仲にあっても、巍然《ぎぜん》と、呂昇の看板を高くかかげられる位置になったのである。呂昇が東京に盛名を得たのは鴈治郎の全盛期の半《なかば》頃からであったと思う。なかごろ呂昇は咽喉《のど》をいためたことがある。彼女のあの嬌音はもう昔のものとなってしまうのかと、その折は特別に贔屓《ひいき》というほどでないものでさえおしんだ。彼女の病気には、高価なラジウムが用いられてあるということも噂《うわさ》された。手をつくした治療の結果は、決して以前とかわらない声になったと伝えられた。それは今からたしか六、七年前の霜月頃のことであった。寒さと小雨のふる夜、泥濘《ぬかるみ》をことともせず、病気静養後の呂昇の出勤へと人は道を急いだ。そして有楽座の座席は臨時の補助|椅子《いす》までふさがって満員になってしまった。しかもその満員は悉《ことごと》く紳士淑女の集りであった。呂昇熱は――呂昇支持者はそういう階級に盛んだった。
 私はそのおりのきらびやかな服装の集りと、高価な煙草や香料のかおりと、先夜の綾之助へ集った聴衆の埃《ほこ》りっぽさ暗さを思いくらべて、綾之助の人気は堅実なものだと思った。しかしながら彼女の芸には、もっと情熱がなくてはいけないと思った。呂昇にそうした明るさと華やいだ人気があるのが誇ならば、綾之助には民衆と親しみのあるのを大きな誇としなくてはならないと考えながら、呂昇のことを心覚えに記しておいた古いノオトを出して見た。
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――呂昇全快、呂昇復活の人気は十五日間を客止《きゃくどめ》にした景気となった。そのおり信州から呂昇に相談をかけて来たが、一ヶ月七千円だすならばと彼女は答えた。これが外国の演芸界のことでもあれば、名ある唄女《うたいめ》の一夕の出演にも、驚く金額ではないかも知れないが、貧乏な国の、しかも多く旅芸人を拾いあげて、安価興行をしなれて来ているものには、それこそ思いもかけぬ高びしゃであったのだろう、信州の興行人は彼女の見識に煙にまかれて手を引いてしまった。
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と記してある。
 故子爵|秋元興朝《あきもとこうちょう》氏は、呂昇会をつくろうと同族間を奔走されたほどであった。貴族のなかでも、柳原伯、松方侯、井上侯、柳沢伯、小笠原伯、大木伯、樺山《かばやま》伯、牧野男、有馬伯、佐竹子などは呂昇贔屓の錚々《そうそう》たる顔ぶれであり、実業家や金満家には添田寿一《そえだじゅいち》氏、大倉喜八郎氏、千葉松兵衛氏、福沢捨次郎氏、古河虎之助氏などは争って邸宅へ招じた後援者であった。崇拝者にいたっては榊原《さかきばら》医学博士をはじめ数えてはいられぬほどある。大蔵大臣であった山本達雄氏などは大阪にゆくときっと呂昇をよんで、寵妓《ちょうぎ》の見張りを申附けられるまでに心安立《こころやすだて》のなかであった。夫人連にもそれに劣らぬ贔屓の競争があったが、鳩山《はとやま》春子女史が以前は大嫌いであった義太夫節が、呂昇を聴いてから急に呂昇びいきになったというのにも、呂昇の角《かど》のない交際ぶりと、性格の一面が見えるではないか。
 呂昇の芸に
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