勤へと人は道を急いだ。そして有楽座の座席は臨時の補助|椅子《いす》までふさがって満員になってしまった。しかもその満員は悉《ことごと》く紳士淑女の集りであった。呂昇熱は――呂昇支持者はそういう階級に盛んだった。
私はそのおりのきらびやかな服装の集りと、高価な煙草や香料のかおりと、先夜の綾之助へ集った聴衆の埃《ほこ》りっぽさ暗さを思いくらべて、綾之助の人気は堅実なものだと思った。しかしながら彼女の芸には、もっと情熱がなくてはいけないと思った。呂昇にそうした明るさと華やいだ人気があるのが誇ならば、綾之助には民衆と親しみのあるのを大きな誇としなくてはならないと考えながら、呂昇のことを心覚えに記しておいた古いノオトを出して見た。
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――呂昇全快、呂昇復活の人気は十五日間を客止《きゃくどめ》にした景気となった。そのおり信州から呂昇に相談をかけて来たが、一ヶ月七千円だすならばと彼女は答えた。これが外国の演芸界のことでもあれば、名ある唄女《うたいめ》の一夕の出演にも、驚く金額ではないかも知れないが、貧乏な国の、しかも多く旅芸人を拾いあげて、安価興行をしなれて来ているものには、それこそ思いもかけぬ高びしゃであったのだろう、信州の興行人は彼女の見識に煙にまかれて手を引いてしまった。
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と記してある。
故子爵|秋元興朝《あきもとこうちょう》氏は、呂昇会をつくろうと同族間を奔走されたほどであった。貴族のなかでも、柳原伯、松方侯、井上侯、柳沢伯、小笠原伯、大木伯、樺山《かばやま》伯、牧野男、有馬伯、佐竹子などは呂昇贔屓の錚々《そうそう》たる顔ぶれであり、実業家や金満家には添田寿一《そえだじゅいち》氏、大倉喜八郎氏、千葉松兵衛氏、福沢捨次郎氏、古河虎之助氏などは争って邸宅へ招じた後援者であった。崇拝者にいたっては榊原《さかきばら》医学博士をはじめ数えてはいられぬほどある。大蔵大臣であった山本達雄氏などは大阪にゆくときっと呂昇をよんで、寵妓《ちょうぎ》の見張りを申附けられるまでに心安立《こころやすだて》のなかであった。夫人連にもそれに劣らぬ贔屓の競争があったが、鳩山《はとやま》春子女史が以前は大嫌いであった義太夫節が、呂昇を聴いてから急に呂昇びいきになったというのにも、呂昇の角《かど》のない交際ぶりと、性格の一面が見えるではないか。
呂昇の芸に
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