《てのひら》に握りつぶされてしまったので、世の中を悲観しないわけにはゆかなかった。彼女はもう何もかも一切のわずらわしさを捨て、故郷に隠遁《いんとん》してしまおうと決心したが、その心持ちを知る人に慰藉《いしゃ》されて思い直し、末虎、照玉と共に旗上げをして鬱《うつ》をなぐさめた。けれどその、苦悩から生れた貴い勇気も、直《すぐ》に阻《はば》むような悪いことがつづいた。時運の来ぬということは仕方のないもので、殊勝な彼女らの旗上げは半年目で火災に逢い、一座は三味線も見台《けんだい》も、肩衣《かたぎぬ》もみんな焼失してしまった。過度の神経衰弱におかされ弱まった心は、またしても故郷に埋もれてしまおうとしたが、九州、中国と巡業したのち思いきって東京へと乗出した。
 呂昇の上京は、いまこそ来ぬうちから待兼《まちかね》られるが、廿五歳で出て来たおりには十銭の木戸で、それでも思ったほどの客足はなかったのである。横浜を打上げて帰阪すると、松の亭の席主が八百円の金を貸してくれたので播重と手を断つことになったのであった。けれどもまた、呂昇は松の亭からはなれることが出来なくなってしまった。
 何処までいってもはてしのない旅――そういうふうにも見られた呂昇の生涯に大飛躍の時が来た。呂昇には三十を越してからやっと福運がめぐって来たのである。それまではよい給料をとりながらも八百円の高利がもとで松の亭にみんな吸われてしまっていたのであった。その後、呂昇が今日の呂昇となる動機に恋があったという事であるが、おしいことに私はこれを聞き洩らしている。
[#地から2字上げ]――大正八年三月――

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附記 昭和五年ごろ大阪に閑居、病を養っていたが、もはや再び肉声を聞かれぬ人となってしまった。
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底本:「新編 近代美人伝(上)」岩波文庫、岩波書店
   1985(昭和60)年11月18日第1刷発行
   1993(平成5)年8月18日第4刷発行
底本の親本:「近代美人伝」サイレン社
   1936(昭和11)年2月発行
初出:「婦人画報」
   1919(大正8)年3月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2007年4月10日作成
青空文庫
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