奪ったのは、彼女のためにかなり尽し入揚《いれあ》げた紳士である。紳士であると思えばこそ世心《よごころ》知らぬ彼女もしたがっていたのであろうが、長い月日のうちには素振《そぶ》りのあやしげなのが仲間うちから噂《うわさ》されるようになった。その紳士が前科者だと知れると、一座するものからも疎《うと》んぜられるようになってしまった。
 彼女の人生の出発点にはそうした痛手があった。彼女の美貌《びぼう》が彼女を悲運におとしたのである。彼女はその心のいたでを癒《いや》すには、全力をそそいで芸の道にまっしぐらとならなければならないと思った。十九歳ごろには、芸の方で彼女を顧みるものもなかったのである。小土佐と一緒に東京へと志望したが、も一修業してから来いと突離《つきはな》された彼女は、若き胸中に、鬱勃《うつぼつ》たる芸の野心と、悲しい心の傷《いた》みとに戦いながら大阪へ出て呂太夫《ろだゆう》に師事した。その当時の大阪は摂津大掾《せっつだいじょう》がまだ越路《こしじ》の名で旭日《あさひ》の登るような勢いであり、そのほかに弥津《やつ》太夫、大隅《おおすみ》太夫、呂太夫の錚々《そうそう》たるがあり、女義には東猿《とうえん》、末虎《すえとら》、長広《ながひろ》、照玉《てるぎょく》と堂々と立者《たてもの》が揃《そろ》っていた。さはあれ、呂昇はよき師をとり、それに一心不乱の勤勉と、天性の美音とが、いつまでも駈出《かけだ》しの旅烏《たびがらす》にしておかなかった。床本《ゆかほん》とお弁当とをもって、文楽座に通うのを毎日の仕事としていた他意なき熱心さを、大阪第一流の女義の定席《じょうせき》、播重《はりじゅう》の主人にみとめられたのが出世のはじまりとなった。めきめきと売出した時に、播重の手から八百円の手切れ金を立替えて、不思議な紳士とも手を断《き》る事が出来たが、しかしながらまた一方には、播重に自由を束縛されてしまいもした。
 弱きは女の心である。一方を逃《のが》れようとしてまたそこに桎梏《しっこく》の枷《かせ》を打たれてしまった。それからの四、五年は播重と呂昇との暗闘であった。呂昇は共楽会という南地《なんち》の演舞場に開催される、第一流の群れに投じようとし、播重は自分の席の専属にしてしまおうと、心までも肉体と共に自由にしようとした。彼女は漸《ようや》く自己の新生面を開こうとしたおりに、こういう大きな掌
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