居見物に来ていたという事を報じた。すこしは気咎《きとが》めがするようで、幕間《まくあい》にはうつむきがちにしていたが、見物が「鎌子だ」といって視線をむけても格別恥らいもしなかった。寛治氏はさすがに座に堪えかねて、中ごろから姿を消してしまったが、彼女は取すまして最後まで見物してのち、歓楽につかれた体を自動車で邸へと急がせたというのである。
またしても世間は湧立った。不埒《ふらち》な女だというさげすみが此処かしこできかれた。
けれども私はそれは彼女の姉達《きょうだい》の見あやまりではなかろうかと思ってやまないのである。
そしてまた彼女は、千葉の病院に在院中も、若き助手などを見ると騒ぎまわって見苦しかったと語った看護婦があった。もしも彼女にそうした行為が誠にあったのならば、それはもう病的なもので、医学上、他の見方があるだろう。私は私としての考察を記して見たまでである。
[#地から2字上げ]――大正七年――
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
附記 五、六年後に、横浜郊外に由緒《ゆいしょ》ありげに御簾《みす》などさげた小家があった。その家の女主人は隠遁した芳川鎌子で、若い運転手
前へ
次へ
全40ページ中39ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング