と言っている。千葉の県立病院長は三輪博士であったが、東京からは帝大外科の近藤博士がわざわざ出むいた。夫の寛治氏も瀕死《ひんし》の彼女の枕辺《まくらべ》にあって、不面目と心のいたみに落涙をかくし得ず、僅《わずか》に訪問の客に、
「余と、余の一族は目下謹慎中にて何とも面目なし」
とその感慨の一部を洩らした。そして一人は息絶え、一人は瀕死であるためにすべての事は秘密に葬りやすかった。この事件の一切を処理する事を依託された岡氏は、絶対の秘密にして、遺書も一応披見したのち焼きすててしまった。
「両方とも誠につまらぬ遺書にて、何らお話するほどの事なし」とはいったが、某氏の談によれば縷々《るる》事情の複雑な関係があからさまにされていたという事である。
 で、彼女たちはどんな風にして家を出てのちを過したかということは、かなり委しく探り出されている。
 それは倉持が自分の部屋で泣きながらお酒を飲み、そして外へ出ていったという夜の十二時すぎのことである。千葉町のある家の門をたたいたのが、何処かで落合った鎌子と陸助とであった。その家はおりから営業を禁止されていたので、田川屋という宿屋へ案内をした。翌朝前の家
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