、朋輩《ほうばい》の運転手が何故泣くのだと聞くと、何にも答えずに外出してしまった。朋輩は多分附近の料理店に情婦があるので其処に行ったのであろうと思ったが黙っている訳に行かぬから、今回情死した鎌子夫人の許可を得て置こうと思ってその室《へや》に訪《たず》ねて行って見ると、夫人の姿も見えない。多分御隠居(顕正《よしまさ》伯)の室にでもいるだろうと思ってこの事を家令に告げた。家令は御隠居のところに行って見たが其処にも夫人の姿は見えない。ところへ主人の寛治氏が帰って来たので、鎌子夫人及び運転手のおらぬ事を告げ、邸内を隈《くま》なく探したがとんとわからぬ。すでに夜も遅いことなり、いずれ帰って来るだろうと思ってそのままに寝てしまった。然《しか》るに七日の朝になっても帰らぬので寛治氏も大いにおどろき、この事を友人なる自分に電話をかけ、昨夜来のことを告げるので、自分は『そんな事があるものか』と直に自動車で伯邸に赴《おもむ》いた。前記の次第をきいて、事実の疑うべからざるに驚いた。それで自分は警視庁に行き、以上の事実を打明けて捜索をたのんだ。同時に、千葉において情死の報があった」
[#ここで字下げ終わり]
と言っている。千葉の県立病院長は三輪博士であったが、東京からは帝大外科の近藤博士がわざわざ出むいた。夫の寛治氏も瀕死《ひんし》の彼女の枕辺《まくらべ》にあって、不面目と心のいたみに落涙をかくし得ず、僅《わずか》に訪問の客に、
「余と、余の一族は目下謹慎中にて何とも面目なし」
とその感慨の一部を洩らした。そして一人は息絶え、一人は瀕死であるためにすべての事は秘密に葬りやすかった。この事件の一切を処理する事を依託された岡氏は、絶対の秘密にして、遺書も一応披見したのち焼きすててしまった。
「両方とも誠につまらぬ遺書にて、何らお話するほどの事なし」とはいったが、某氏の談によれば縷々《るる》事情の複雑な関係があからさまにされていたという事である。
 で、彼女たちはどんな風にして家を出てのちを過したかということは、かなり委しく探り出されている。
 それは倉持が自分の部屋で泣きながらお酒を飲み、そして外へ出ていったという夜の十二時すぎのことである。千葉町のある家の門をたたいたのが、何処かで落合った鎌子と陸助とであった。その家はおりから営業を禁止されていたので、田川屋という宿屋へ案内をした。翌朝前の家
前へ 次へ
全20ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング