あり、遊女が、上流の風俗をまねて更に派手やかであり、そして、女としての教養もあって、その代表者たちにより、時代の女として見られた。それに次いで、明治期は、芸者美が代表していたといえる。貴婦人の社交も拡《ひろ》まり、女子|擡頭《たいとう》の気運は盛んになったとはいえ、そしてまた、女学生スタイルが、追々に花柳界人の跳梁《ちょうりょう》を駆逐《くちく》したとはいえ、それは、大正の今日にかかる桟《かけはし》であって、明治年間ほど芸妓の跋扈《ばっこ》したことはあるまい。恰度《ちょうど》前代の社交が吉原であったように、明治の政府と政商との会合は多く新橋、赤坂辺の、花柳明暗《かりゅうめいあん》の地に集まったからでもあろう。芸妓の鼻息はあらくなって、真面目《まじめ》な子女は眼下に見下され、要路の顕官《けんかん》貴紳《きしん》、紳商は友達のように見なされた。そして誰氏の夫人、彼氏の夫人、歴々たる人々の正夫人が芸妓上りであって、遠き昔はいうまでもなく、昨日まで幕府の役人では小旗本といえど、そうした身柄のものは正夫人とは許されなかったのに、一躍して、雲井に近きあたりまで出入することの出来る立身出世――玉《たま》の輿《こし》の風潮にさそわれて、家憲《かけん》厳しかった家までが、下々《しもじも》では一種の見得《みえ》のようにそうした家業柄の者を、いきなり家庭の主婦として得々としていた――これは中堅家庭の道徳の乱れた源となった。
しかしながら、それは国事にこと茂くて、家事をかえり見る暇《いとま》のすけなかった人や、それほどまでに栄達して、世の重き人となろうとは思わなかった人の、軽率な、というより、止《や》むを得《え》ぬ情話などが絡《から》んでそうなったのを――しかもその美妓たちには、革進者を援ける気概のあった勝《すぐ》れた婦人も多かったのだ――世人は改革者の人物を欽仰《きんこう》して、それらのことまで目標とし、師表とした誤りである。ともあれ、前時代の余波をうけて、堅気な子女は深窓を出ず、几帳《きちょう》をかなぐって、世の中に飛出したものもなかったので、勢い明治初年から中頃までは、そうした階級の女の跳躍にまかせるより外はなかった。
ここに燦《さん》として輝くのは、旭日《あさひ》に映る白菊の、清香|芳《かん》ばしき明治大帝の皇后宮、美子《はるこ》陛下のあれせられたことである。
陛下は稀《まれ》に見る美人でおわしました。明眸皓歯《めいぼうこうし》とはまさにこの君の御事と思わせられた。いみじき御才学は、包ませられても、御詠出の御歌によって洩《も》れ承《うけたま》わる事が出来た。
明治聖帝が日本の国土の煌《かがや》きの権化《ごんげ》でおわしますならば、桜さく国の女人の精華は、この后であらせられた。大日輪の光りの中から聖帝がお生まれになったのならば、天地馥郁《てんちふくいく》として、花の咲きみちこぼれたる匂いの蕋《しべ》のうちに、麗しきこの女君《めぎみ》は御誕生なされたのである。明治の御代に生れたわたしは、何時もそれをほこりにしている。一天|万乗《ばんじょう》の大君の、御座《ぎょざ》の側《かたわ》らにこの后がおわしましてこそ、日の本は天照大御神の末で、東海貴姫国とよばれ、八面|玲瓏《れいろう》の玉芙蓉峰《ぎょくふようほう》を持ち、桜咲く旭日《あさひ》の煌く国とよぶにふさわしく、『竹取物語』などの生れるのもことわりと思うのであった。
我等女性が忘れてならないこの后からの賜物《たまもの》は、長い間の習わしで、女性の心が盲目であったのに目を開かせ、心の眠っていたものに夢をさまさせ、女というもの自身のもつ美果を、自ら耕し養えとの御教えと、美術、文芸を、かくまで盛んに導かせたまいしおんことである。それは廃《すた》れたるを起し、新しきを招かれたそればかりでなく、音楽や芸術のたぐいにとりてばかりでなく、すべての文教のために、忘れてならないお方でおわしました。主上にはよき后でおわしまし、国民にはめでたき国の宝と、思いあげる御方であらせられた。
この、后の宮の御側には、平安朝の後宮《こうきゅう》にもおとらぬ才媛《さいえん》が多く集められた。五人の少女を選んで海外留学におつかわしになったことや、十六歳で見出された下田歌子《しもだうたこ》女史、岸田俊子《きしだとしこ》(湘煙《しょうえん》)女史があり、女学の道を広めさせられた思召《おぼしめし》は、やがて女子に稀な天才が現われるときになって、御余徳《おんよとく》がしのばれることであろう。一条左大臣の御娘である。
二
わたしは此処に、代表的明治美人の幾人かの名を記《しる》そう。そしてその中からまた幾人かを選んで、短かい伝を記そう。上流では北白川宮大妃富子殿下、故|有栖川宮《ありすがわのみや》妃慰子殿下、新樹《しんじゅ》の局《つぼね》、高倉典侍、現岩倉侯爵の祖母君、故|西郷従道《さいごうつぐみち》侯の夫人、現前田侯爵母堂、近衛公爵の故母君、大隈《おおくま》侯爵夫人綾子、戸田伯爵夫人極子を数えることが出来る。東伏見宮周子殿下、山内禎子《やまうちさだこ》夫人、有馬貞子夫人、前田漾子《まえだようこ》夫人、九条武子夫人、伊藤※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子《いとうあきこ》夫人、小笠原貞子夫人、寺島鏡子夫人、稲垣栄子夫人、岩倉桜子夫人、古川富士子夫人の多くは、大正期に語る人で、明治の過去には名をつらねるだけであろうと思われる。
山県公の前夫人は公の恋妻であったが二十有余年の鴛鴦《えんおう》の夢破れ、公は片羽鳥《かたわどり》となった。その後、現今の貞子夫人が側近《そばちこ》う仕えるようになった。幾度か正夫人になるという噂《うわさ》もあったが、彼女は卑下して自ら夫人とならぬのだともいうが、物堅い公爵が許さず、一門にも許さぬものがあって、そのままになっているという事である。表面はともあれ、故|桂《かつら》侯などは正夫人なみにあつかわれたという、その余の輩《ともがら》にいたってはいうまでもない事であろう。すれば事実は公爵夫人貞子なのである。
貞子夫人の姉たき子は紳商|益田孝《ますだたかし》男爵の側室である。益田氏と山県氏とは単に茶事《ちゃじ》ばかりの朋友《とも》ではない。その関係を知っているものは、彼女たち姉妹のことを、もちつもたれつの仲であるといった。相州板橋にある山県公の古稀庵《こきあん》と、となりあう益田氏の別荘とはその密接な間柄をものがたっている。
姉のたき子は痩《や》せて眼の大きい女である。妹の貞子は色白な謹《つつ》ましやかな人柄である。今日の時世に、維新の元勲元帥の輝きを額にかざし、官僚式に風靡し、大御所《おおごしょ》公の尊号さえ附けられている、大勲位公爵を夫とする貞子夫人の生立ちは、あわれにもいたましい心の疵《きず》がある。彼女たち姉妹がまだ十二、三のころ、彼女たちの父は、日本橋芸妓歌吉と心中をして死んだ。そういう暗い影は、どんなに無垢《むく》な娘心をいためたであろう。子を捨ててまで、それもかなりに大きくなった娘たちを残して、一家の主人が心中する――近松翁の「天《てん》の網島《あみじま》」は昔の語りぐさではなく、彼女たちにはまざまざと眼に見せられた父の死方である。明治十六年の夏、山王《さんのう》――麹町|日枝《ひえ》神社の大祭のおりのことであった。芸妓歌吉は、日本橋の芸妓たちと一緒に手古舞《てこまい》に出た、その姿をうみの男の子で、鍛冶屋《かじや》に奉公にやってあるのを呼んで見物させて、よそながら別れをかわした上、檜物町《ひものちょう》の、我家の奥蔵の三階へ、彼女たちの父親を呼んで、刃物で心中したのであった。
彼女たちは後に、芝居でする「天の網島」を見てどんな気持ちに打たれたであろうか、紙屋治兵衛《かみやじへえ》は他人の親でなく、浄瑠璃でなく、我親そのままなのである。京橋八官町の唐物屋《とうぶつや》吉田吉兵衛なのである。
彼女たちの父は入婿《いりむこ》であった。母は気強《きごう》な女であった。また芸妓歌吉の母親や妹も気の強い気質であった。その間に立って、気の弱い男女は、互いに可愛い子供を残して身を亡《ほろぼ》したのである。其処に人世の暗いものと、心の葛藤《かっとう》とがなければならない。結びついて絡《から》まった、ついには身を殺されなければならない悲劇の要素があったに違いない。
その当時の新聞記事によると、歌吉の母親は、対手《あいて》の男の遺子たちに向って、お前方も成長《おおき》くなるが、間違ってもこんな真似をしてはいけないという意味を言聞かして、涙|一滴《いってき》こぼさなかったのは、気丈な婆さんだと書いてあった。その折、言聞かされて頷《うなず》いていた少女が、たき子と貞子の姉妹で、彼女の母親は、彼女たちの父親を死に誘った、憎みと怨《うら》みをもたなければならないであろう妓女《げいしゃ》に、この姉妹《きょうだい》をした。彼女たちは直《すぐ》に新橋へ現れた。
複雑な心裡《しんり》の解剖はやめよう。ともあれ彼女たちは幸運を羸《か》ち得たのである。情も恋もあろう若き身が、あの老侯爵に侍《かしず》いて三十年、いたずらに青春は過ぎてしまったのである。老公爵百年の後の彼女の感慨はどんなであろう。夫を芸妓に心中されてしまった彼女の母親は、新橋に吉田家という芸妓屋を出していた。そして後の夫は講談師|伯知《はくち》である。夫には、日本帝国を背負っている自負の大勲位公爵を持ち、義父に講談師伯知を持った貞子の運命は、明治期においても数奇なる美女の一人といわなければなるまい。
その他|淑徳《しゅくとく》の高い故伊藤公爵の夫人梅子も前身は馬関《ばかん》の芸妓小梅である。山本権兵衛伯夫人は品川の妓楼に身を沈めた女である。桂公爵夫人加奈子も名古屋の旗亭香雪軒《きていかせつけん》の養女である。伯爵黒田清輝画伯夫人も柳橋でならした美人である。大倉喜八郎夫人は吉原の引手茶屋の養女ということである。銅山王古川虎之助氏母堂は、柳橋でならした小清さんである。
横浜の茂木《もぎ》、生糸の茂木と派手にその名がきこえていた、生糸王野沢屋の店の没落は、七十四銀行の取附け騒ぎと共にまだ世人の耳に新らしいことであろう。その茂木氏の繁栄をなさせ、またその繁栄を没落させたかげに、当代の若主人の祖母おちょうのある事を知る物はすけない。彼女は江戸が東京になって間もない赤坂で、常磐津《ときわず》の三味線をとって、師匠とも町芸者ともつかずに出たが、思わしくなかったので、当時開港場として盛んな人気の集った、金づかいのあらい横浜へ、みよりの琴の師匠をたよって来て芸者となった伝法《でんぼう》な、気っぷのよい、江戸育ちの歯ぎれのよいのが、大きな運を賭《かけ》てかかる投機的の人心に合って、彼女はめきめき[#「めきめき」に傍点]と売り出した。その折、彼女の野心を満足させたのは、横浜と共に太ってゆく資産家野沢屋の旦那をつかまえたことであった。
野沢屋茂木氏には糟糠《そうこう》の妻があった。彼女は遊女上りでこそあるが、一心になって夫を助け家を富《とま》した大切な妻であった。その他に野沢屋には総番頭支配人に、生糸店として野沢屋の名をなさせた大功のある人物があった。その二人のために、さすがに溺《おぼ》れた主人も彼女をすぐに家に入れなかった。長い年月を彼女は外妾として暮さなければならなかった。
茂木氏夫妻には実子がなかった。夫婦の姪《めい》と甥《おい》を呼び寄せ、めあわせて二代目とした。ところが外妾の方には子が出来た。女であったので後に養子をしたが、現代の惣兵衛氏の親たちで、彼女が野沢屋の大奥さんとして、出来るだけの栄華にふける種をおろしたのであった。
過日あの没落騒動《ぼつらく》があった時に、おなじ横浜に早くから目をつけて来たが、茂木氏のような運を掴《つか》み得ないで、国許《くにもと》に居るときよりは、一層せちがらい世を送っている者たちはこう言った。
「とうとう本妻の罰があたったのだ。悪運も末になって傾いて来たのだ。」
なるほど彼女はかなり
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