り、バイブルに親しむ聖徒となり、再転、川上|貞奴《さだやっこ》の「女優養成所」の監督となって、劇術研究に渡米し、米国ボストンで客死したとき、財産の全部ともいうほどを、昔日の恋人に残した佳話の持主で、書残されない女である。
 三艸子《みさこ》の妹もうつくしい人であったが、尾上《おのえ》いろともいい、荻野八重桐《おぎのやえぎり》とも名乗って年をとってからも、踊の師匠をして、本所のはずれにしがない暮しをしていた。この姉妹が盛りのころは、深川の芸者で姉は小川屋の小三《こさん》といい、または八丁堀|櫓下《やぐらした》の芸者となり、そのほかさまざまの生活をして、好き自由な日を暮しながら歌人としても相当に認められ、井上文雄《いのうえふみお》から松《まつ》の門《と》の名を許され、文人墨客の間を縫うて、彼女の名は喧伝《けんでん》されたのであった。その頃は芸者が意気なつくりをよろこんで、素足《すあし》の心意気の時分に、彼女は厚化粧《あつげしょう》で、派手やかな、人目を驚かす扮飾をしていた。山内侯に見染められたのも、水戸の武田耕雲斎《たけだこううんさい》に思込まれて、隅田川の舟へ連れ出して白刃《はくじん》をぬいて挑《いど》まれたのも、みな彼女の若き日の夢のあとである。彼女たちは幕府のころ、上野の宮の御用達をつとめた家の愛娘であった。下谷《したや》一番の伊達者《だてしゃ》――その唄は彼女の娘時代にあてはめる事が出来る。店が零落してから、ある大名の妾となったともいうが、いかに成行《なりゆ》こうかも知らぬ娘に、天から与えられた美貌と才能は何よりもの恵みであった。彼女は才能によって身をたてようとした。そして八丁堀|茅場町《かやばちょう》の国文の大家、井上文雄の内弟子《うちでし》になった。彼女たちは内弟子という、また他のものは妾だともいう。しかし妾というのは、その頃はまだ濁りにそまない、あまり美しすぎる娘時代であったので、とかく美貌のものがうける妬《ねた》みであったろうと思われるが、後にはあまり素行の方では評判がよくなかった。

       四

 我国女流教育家の泰斗《たいと》としての下田歌子女史は、別の機会に残して夙《つと》に后の宮の御見出しにあずかり、歌子の名を御下命になったのは女史の十六歳の時だというが、総角《あげまき》のころから国漢文をよくして父君を驚かせた才女である。中年の女盛りには美人としての評が高く、洋行中にも伊藤公爵との艶名艶罪が囂《かまびす》しかった。古い頃の自由党副総理|中島信行《なかじまのぶゆき》男の夫人|湘煙《しょうえん》女史は、長く肺患のため大磯にかくれすんで、世の耳目《じもく》に遠ざかり、信行男にもおくれて死なれたために、あまりその晩年は知られなかったが、彼女は京都に生れ、岸田俊子といった。年少のころ宮中に召された才媛の一人で、ことに美貌な女であった。この女《ひと》は覇気《はき》あるために長く宮中におられず、宮内を出ると民権自由を絶叫し、自由党にはいって女政治家となり、盛んに各地を遊説《ゆうぜい》し、チャーミングな姿体と、熱烈な男女同権、女権拡張の説をもち、十七、八の花の盛りの令嬢が、島田髷《しまだまげ》で、黄八丈《きはちじょう》の振袖で演壇にたって自由党の箱入り娘とよばれた。さびしい晩年には小説に筆を染められようとしたが、それも病のためにはかばかしからず、母堂に看《みと》られてこの世を去った。
 女性によって開拓された宗教――売僧俗僧《まいすぞくそう》の多くが仮面をかぶりきれなかった時において、女流に一派の始祖を出したのは、天理教といわず大本教《おおもときょう》といわず、いずれにしても異なる事であった。その中で皇族の身をもって始終精神堅固に、仏教によって民心をなごめられた村雲尼公《むらくもにこう》は、玉を磨いたような貌容《おかお》であった。温和と、慈悲と、清麗《せいれい》とは、似るものもなく典雅玲瓏《てんがれいろう》として見受けられた。紫の衣に、菊花を金糸に縫いたる緋の輪袈裟《わけさ》、御よそおいのととのうたあでやかさは、その頃美しいものの譬《たと》えにひいた福助――中村歌右衛門の若盛り――と、松島屋――現今の片岡我童《かたおかがどう》の父で人気のあった美貌《びぼう》の立役《たちやく》――を一緒にしたようなお貌《かお》だとひそかにいいあっていたのを聞覚えている。また、予言者と称した「神生教壇《しんせいきょうだん》」の宮崎虎之助氏夫人光子は、上野公園の樹下石上《じゅかせきじょう》を講壇として、路傍の群集に説教し、死に至るまで道のために尽し、諸国を伝道し廻り、迷える者に福音をもたらしていたが、病い重しと知るや一層活動をつづけてついに終りを早うした。その遺骨は青森県の十和田湖畔の自然岩の下に葬られている。強い信仰と理性とに引きしま
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