美人としての評が高く、洋行中にも伊藤公爵との艶名艶罪が囂《かまびす》しかった。古い頃の自由党副総理|中島信行《なかじまのぶゆき》男の夫人|湘煙《しょうえん》女史は、長く肺患のため大磯にかくれすんで、世の耳目《じもく》に遠ざかり、信行男にもおくれて死なれたために、あまりその晩年は知られなかったが、彼女は京都に生れ、岸田俊子といった。年少のころ宮中に召された才媛の一人で、ことに美貌な女であった。この女《ひと》は覇気《はき》あるために長く宮中におられず、宮内を出ると民権自由を絶叫し、自由党にはいって女政治家となり、盛んに各地を遊説《ゆうぜい》し、チャーミングな姿体と、熱烈な男女同権、女権拡張の説をもち、十七、八の花の盛りの令嬢が、島田髷《しまだまげ》で、黄八丈《きはちじょう》の振袖で演壇にたって自由党の箱入り娘とよばれた。さびしい晩年には小説に筆を染められようとしたが、それも病のためにはかばかしからず、母堂に看《みと》られてこの世を去った。
女性によって開拓された宗教――売僧俗僧《まいすぞくそう》の多くが仮面をかぶりきれなかった時において、女流に一派の始祖を出したのは、天理教といわず大本教《おおもときょう》といわず、いずれにしても異なる事であった。その中で皇族の身をもって始終精神堅固に、仏教によって民心をなごめられた村雲尼公《むらくもにこう》は、玉を磨いたような貌容《おかお》であった。温和と、慈悲と、清麗《せいれい》とは、似るものもなく典雅玲瓏《てんがれいろう》として見受けられた。紫の衣に、菊花を金糸に縫いたる緋の輪袈裟《わけさ》、御よそおいのととのうたあでやかさは、その頃美しいものの譬《たと》えにひいた福助――中村歌右衛門の若盛り――と、松島屋――現今の片岡我童《かたおかがどう》の父で人気のあった美貌《びぼう》の立役《たちやく》――を一緒にしたようなお貌《かお》だとひそかにいいあっていたのを聞覚えている。また、予言者と称した「神生教壇《しんせいきょうだん》」の宮崎虎之助氏夫人光子は、上野公園の樹下石上《じゅかせきじょう》を講壇として、路傍の群集に説教し、死に至るまで道のために尽し、諸国を伝道し廻り、迷える者に福音をもたらしていたが、病い重しと知るや一層活動をつづけてついに終りを早うした。その遺骨は青森県の十和田湖畔の自然岩の下に葬られている。強い信仰と理性とに引きしま
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