明治大正美女追憶
長谷川時雨

−−
【テキスト中に現れる記号について】 

《》:ルビ
(例)風靡《ふうび》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)武家|跋扈《ばっこ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)女史の※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子《あきこ》さん
−−

 最近三、五年、モダーンという言葉の流行は、すべてを風靡《ふうび》しつくして、ことに美女の容姿に、心に、そのモダンぶりはすさまじい勢いである。で、美女の評価が覆《くつが》えされた感があるが、今日のモダンガールぶりは、まだすこしも洗練を経ていない。強烈な刺戟《しげき》は要するにまだ未熟で、芸術的であり得ないきらいがある。つねに流行は、そうしたものだといえばそれまでだが、デパートメントの色彩で、彼女らはけばけばしい一種のデコレーションにすぎない。
 さて振りかえって過ぎ越しかたを見る。そこにはいつも、一色の時代の扮飾《ふんしょく》はある。均一の品の多いのは、いつの世とてかわりはないが、さすがに残されるほどのものには、各階級を支配し、代表した美がある。尤《もっと》も現代の理想は、差別を廃し、平等となる精神にある。とはいえ、根本は一つでありながら、美と善とは両立せねばならぬ。そして生れながらにして、美を心に、姿に授けられたものは、砂礫《されき》のなかのダイヤモンド、生《いき》るにけわしき世の、命の源泉として、人生を幸福にするものといえる。
 かつて、「現代女性の美の特質」とて、大正美人を記《しる》した中に、あまりに世の中の美人観が変ったとて、「現代は驚異である」とわたしは言っている。現代では、度外《どはず》れということや、突飛《とっぴ》ということが辞典から取消されて、どんなこともあたりまえのこととなってしまった、実に「驚異」横行の時代であり、爆発の時代である。各自の心のうちには空さえも飛び得るという自信をもちもする。まして最近、檻《おり》を蹴破《けやぶ》り、桎梏《しっこく》をかなぐりすてた女性は、当然ある昂《たかぶ》りを胸に抱《いだ》く、それゆえ、古い意味の(調和)古い意味の(諧音《かいおん》)それらの一切は考えなくともよしとし、(不調和)のうちに調和を示し、音楽を夾雑音《きょうざつおん》のうちに聴くことを得意とする。女性の胸に燃えつつある自由思想は、(化粧)(服装)(装身)という方面の伝統を蹴り去り、外形的に(破壊)と(解放)とを宣告し、ととのわない複雑、出来そくなった変化、メチャメチャな混乱、――いかにも時代にふさわしい異色を示している――と語っている。
 その時代精神の中枢は自由であった。束縛は敵であり、跳躍は味方だった。各自の気分によって女性はおつくりをしだした。美の形式はあらゆる種類のものが認識され、その奔放な心持ちは、ゆきつくところを知らずにいまもなお混沌《こんとん》としてつづいている。
 この混沌たる時代粧よ。
 改革の第一歩は勇気に根ざす、いかに馴化《じゅんか》された美でも、古くなり気が抜けては、生気に充《み》ちた時代の気分とは合わなくなってしまう。混沌たる中から新様式の美は発しる。やがて、そこから、新日本の女性美は現わされ示されるであろう。

 古《いにしえ》から美女は京都を主な生産地としていたが、このごろ年ごとに彼地へ行って見るが、美人には一人も逢《あ》わなかったといってよいほどであった。一世紀前位までは、たしかに、平安朝美女の名残りをとどめていたのであろうが、江戸のいんしんは、彼地から美女を奪ったといえる。徳川三百年、豊麗な、腰の丸み柔らかな、艶冶《えんや》な美女から、いつしか苦味をふくんだ凄艶《せいえん》な美女に転化している。和歌よりは俳句をよろこび、川柳《せんりゅう》になり、富本《とみもと》から新内節《しんないぶし》になった。その末期《まつご》は、一層ヒステリックになった。
 そのヒステリーが、ひとつ、ガチャンと打破したあとに、明治美人は来た。その初期は、維新当時、男にも英雄的人物が多かった通り、美女もまた英雄型であった。と、いうのは、気宇のすぐれた女ばかりをいうのではない、眉《まゆ》も、顔だちも、はれやかに、背丈《せたけ》などもすぐれて伸々《のびのび》として、若竹のように青やかに、すくすくと、かがみ女の型をぬけて、むしろ反身《そりみ》の立派な恰好《かっこう》であった。
 上代《じょうだい》寧楽《なら》の文明は、輝かしき美麗な女を生んで、仏画に仏像に、その面影を残しとどめている。平安期は貴族の娘の麗わしさばかりを記している。鎌倉時代、室町《むろまち》のころにかけては、寂《さび》と渋味を加味し、前代末の、無情を観じた風情《ふぜい》をも残し、武家|跋扈《ばっこ》より来る、女性の、深き執着と、諦《あき》らめをふくんでいる。徳川期に至って目に立つのは、美女が平民に多く見出《みいだ》されることである。これは幕府が大名の奥方、姫君などを籠《かご》の鳥同様、人質《ひとじち》として丸の内|上屋敷《かみやしき》に檻禁《かんきん》させていたので、美しき女の伝もつたわらぬのでもあれば、時を得て下層の女の気焔《きえん》が高まったのでもあろう。湯女《ゆな》、遊女、水茶屋の女たちは顔が売ものである。そのなかで、上代にはあれほど手練のあった貴婦人たちが、干菓子のように乾《ひ》からびた教育を、女庭訓《おんなていきん》とするようになってから、彼女たちに代ったものはなんであったか、大名たちの下《しも》屋敷や国許《くにもと》における妾《めかけ》狂いは別として、自由なる社交場として吉原《よしわら》や島原の廓《くるわ》が全盛になった。機を見るにさかしい者たちは、遊女らの扮粧《ふんそう》を上流の美女に似せ、それよりも放逸で、派手やかであり、淫蕩《いんとう》な裲襠姿《しかけすがた》をつくりだし、その上に教養もくわえた。で、高名な浮世絵師えがくところの美女も、みなその粉本《ふんぽん》はこの狭斜《きょうしゃ》のちまたから得ている。美人としての小伝にとる材料も多くはこの階級から残されている。その余力が明治期のはじめまで勢力のあった芸妓《げいぎ》美である。貴婦人の社交も拡《ひろ》まり、その他女性の擡頭《たいとう》の機運は盛んになったとはいえ、女学生スタイルが花柳人《かりゅうじん》の跳梁《ちょうりょう》を駆逐《くちく》したとはいえ、それは新しく起った職業婦人美とともに大正期に属して、とにかく明治年間は芸妓の跋扈《ばっこ》を認めなければならない。歴々たる人々の正夫人が芸妓上りであるという風潮に誘われて、家憲の正しいのを誇った家や、商人までが、一種の見得《みえ》のようにして、それらの美女を根引《ねびき》し、なんの用意もなく家婦とし、子女の母として得々としたことが、市民の日常、家庭生活の善良勤倹な美風をどんなに後になって毒したかしれない。その軽率さ、いかに国事ことしげく、風雲に乗じて栄達し、家事をかえり見る暇《いとま》がなかったといえ、その後、頻々《ひんぴん》として起った、上流子女の淫事は、悲しき破綻《はたん》をそこに根ざしている。
 思えば、国家の大事を議する人々の、機密の集りだという席が酒亭であって、酌するものを客の数より多くをならべて、敢《あえ》て恥《はじ》ず、その有様を撮《と》らせ、そのまた写真を公然と新聞に掲げていたのが、漸《ようや》く影を見せなくなったのは、やっと、大正十二年大震後のことではないか。
 あの謹厳な、故|山県《やまがた》老公もまた若くて、鎗《やり》踊りをおどったとさえ言伝えられる、明治十七、八年ごろの鹿鳴館《ろくめいかん》時代は、欧風心酔の急進党が長夜の宴を張って、男女交際に没頭したおりであった。洋行がえりの式部官戸田子爵夫人極子が、きわめて豊麗な美女で、故伊藤公が魅惑を感じて物議をひきおこしたとの噂《うわさ》もあった。岩倉公爵夫人――東伏見宮《ひがしふしみのみや》大妃周子殿下の母君も、殿下が今もなおお美しいがごとく清らかな女だった。大隈《おおくま》侯夫人綾子も老いての後も麗々しかったように美しかった。その中にも故|村雲尼公《むらくもにこう》は端麗なる御容姿が、どれほど信徒の信仰心を深めさせたか知れなかった。
 富貴《ふっき》楼お倉、有明《ゆうめい》楼おきく、金瓶《きんぺい》楼|今紫《いまむらさき》は明治の初期の美女代表で、あわせて情史を綴《つづ》っている。お倉は新宿の遊女、今紫は大籬《おおまがき》の花魁《おいらん》、男舞で名をあげ、吉原太夫《よしわらだゆう》の最後の嬌名《きょうめい》をとどめたが、娼妓《しょうぎ》解放令と同時廃業し、その後、薬師|錦織《にしごおり》某と同棲《どうせい》し、壮士芝居|勃興《ぼっこう》のころ女優となったりして、男舞いを売物に地方を廻っていたが、終りはあまり知れなかった。お倉は妓籍にあるころよりも、横浜開港に目をつけて、夫と共に横浜に富貴楼の名を高め、晩年も要路の人々の仲にたって、多くの養女をそれぞれの顕官に呈して、時世の機微を覗《うかが》い知っていた。有明楼おきくは、訥升《とつしょう》沢村宗十郎の妻となって――今の宗十郎の養母――晩年をやすらかに逝《い》ったが、これまた浅草今戸橋のかたわらに、手びろく家居《かきょ》して、文人墨客《ぶんじんぼっかく》に貴紳に、なくてならぬ酒亭の女主人であった。
 芳町《よしちょう》の米八《よねはち》、後に今紫と一緒に女優となって、千歳米波《ちとせべいは》とよばれた妓《こ》は、わたしの知っている女の断髪の最初だと思う。彼女は若いころの奔放さをもちながら、おとろえてゆく嘆きに堪えないでか、大酒をあおって、芝居見物中など大声をあげていた。浴衣《ゆかた》の腕をまくり、その頃はまだ珍らしい腕輪を見せ、やや長めの断髪の下から、水入りの助六《すけろく》(九代目市川団十郎歌舞伎十八番)のような鉢巻《はちまき》を手拭《てぬぐい》でして、四辺《あたり》をすこしもはばからなかった。彼女が米八の若盛りに、そのころの最新知識の秀才二人を見立て、そのうちの誰が、この米八の配偶として最もよいかという事になり、めでたくその一人と結びはしたものの、その人に早く死別して、あたら才女も奇矯な女になってしまったのであった。また赤坂で、町芸者|常磐津《ときわず》の師匠ともつかずに出ていたおちょうが、開港場の人気の、投機的なのに目をつけて横浜にゆき、生糸王国をつくった茂木、野沢屋の後妻となり、あの大資産を一朝にひっくりかえした後日|譚《ものがたり》の主人公となったのも、叶屋《かのうや》歌吉という、子まである年増《としま》芸妓と心中した商家の主人の二人の遺子が、その母と共に新橋に吉田屋という芸妓屋をはじめ、その後身が、益田《ますだ》男爵の愛妾《あいしょう》おたきであり、妹の方が、山県有朋《やまがたありとも》公のお貞の方であるというのは、出世の著るしいものであろう。尤も、故伊藤公の梅子夫人も馬関《ばかん》の妓、桂《かつら》かな子夫人も名古屋の料亭の養女ではある。女流歌人|松《まつ》の門《と》三艸子《みさこ》は長命であったが、その前身は井上文雄の内弟子《うちでし》兼|妾《めかけ》で、その後、深川松井町の芸妓|小川小三《おがわこさん》である。水戸《みと》の武田耕雲斎に思われ、大川の涼み船の中で白刃《はくじん》にとりまかれたという挿話《そうわ》ももっている。
 さて、駈足《かけあし》になって、列伝のように名だけをならべるが、京都の老妓|中西君尾《なかにしきみお》は、井上侯が聞太《もんた》だった昔の艶話《つやばやし》にすぎないとして、下田歌子《しもだうたこ》女史は明治初期の女学、また岸田俊子《きしだとしこ》、景山英子《かげやまひでこ》は女子新運動史をも飾る美人だった。愛国婦人会を設立した奥村五百子《おくむらいおこ》も、美丈夫のような美しさがあった。上野公園の石段にたって叫んでいた宮崎光子《みやざきみつこ》も立派であった。有島氏と
次へ
全2ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング