う。彼女は若いころの奔放さをもちながら、おとろえてゆく嘆きに堪えないでか、大酒をあおって、芝居見物中など大声をあげていた。浴衣《ゆかた》の腕をまくり、その頃はまだ珍らしい腕輪を見せ、やや長めの断髪の下から、水入りの助六《すけろく》(九代目市川団十郎歌舞伎十八番)のような鉢巻《はちまき》を手拭《てぬぐい》でして、四辺《あたり》をすこしもはばからなかった。彼女が米八の若盛りに、そのころの最新知識の秀才二人を見立て、そのうちの誰が、この米八の配偶として最もよいかという事になり、めでたくその一人と結びはしたものの、その人に早く死別して、あたら才女も奇矯な女になってしまったのであった。また赤坂で、町芸者|常磐津《ときわず》の師匠ともつかずに出ていたおちょうが、開港場の人気の、投機的なのに目をつけて横浜にゆき、生糸王国をつくった茂木、野沢屋の後妻となり、あの大資産を一朝にひっくりかえした後日|譚《ものがたり》の主人公となったのも、叶屋《かのうや》歌吉という、子まである年増《としま》芸妓と心中した商家の主人の二人の遺子が、その母と共に新橋に吉田屋という芸妓屋をはじめ、その後身が、益田《ますだ》男爵の愛妾《あいしょう》おたきであり、妹の方が、山県有朋《やまがたありとも》公のお貞の方であるというのは、出世の著るしいものであろう。尤も、故伊藤公の梅子夫人も馬関《ばかん》の妓、桂《かつら》かな子夫人も名古屋の料亭の養女ではある。女流歌人|松《まつ》の門《と》三艸子《みさこ》は長命であったが、その前身は井上文雄の内弟子《うちでし》兼|妾《めかけ》で、その後、深川松井町の芸妓|小川小三《おがわこさん》である。水戸《みと》の武田耕雲斎に思われ、大川の涼み船の中で白刃《はくじん》にとりまかれたという挿話《そうわ》ももっている。
 さて、駈足《かけあし》になって、列伝のように名だけをならべるが、京都の老妓|中西君尾《なかにしきみお》は、井上侯が聞太《もんた》だった昔の艶話《つやばやし》にすぎないとして、下田歌子《しもだうたこ》女史は明治初期の女学、また岸田俊子《きしだとしこ》、景山英子《かげやまひでこ》は女子新運動史をも飾る美人だった。愛国婦人会を設立した奥村五百子《おくむらいおこ》も、美丈夫のような美しさがあった。上野公園の石段にたって叫んでいた宮崎光子《みやざきみつこ》も立派であった。有島氏と
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