えば、国家の大事を議する人々の、機密の集りだという席が酒亭であって、酌するものを客の数より多くをならべて、敢《あえ》て恥《はじ》ず、その有様を撮《と》らせ、そのまた写真を公然と新聞に掲げていたのが、漸《ようや》く影を見せなくなったのは、やっと、大正十二年大震後のことではないか。
あの謹厳な、故|山県《やまがた》老公もまた若くて、鎗《やり》踊りをおどったとさえ言伝えられる、明治十七、八年ごろの鹿鳴館《ろくめいかん》時代は、欧風心酔の急進党が長夜の宴を張って、男女交際に没頭したおりであった。洋行がえりの式部官戸田子爵夫人極子が、きわめて豊麗な美女で、故伊藤公が魅惑を感じて物議をひきおこしたとの噂《うわさ》もあった。岩倉公爵夫人――東伏見宮《ひがしふしみのみや》大妃周子殿下の母君も、殿下が今もなおお美しいがごとく清らかな女だった。大隈《おおくま》侯夫人綾子も老いての後も麗々しかったように美しかった。その中にも故|村雲尼公《むらくもにこう》は端麗なる御容姿が、どれほど信徒の信仰心を深めさせたか知れなかった。
富貴《ふっき》楼お倉、有明《ゆうめい》楼おきく、金瓶《きんぺい》楼|今紫《いまむらさき》は明治の初期の美女代表で、あわせて情史を綴《つづ》っている。お倉は新宿の遊女、今紫は大籬《おおまがき》の花魁《おいらん》、男舞で名をあげ、吉原太夫《よしわらだゆう》の最後の嬌名《きょうめい》をとどめたが、娼妓《しょうぎ》解放令と同時廃業し、その後、薬師|錦織《にしごおり》某と同棲《どうせい》し、壮士芝居|勃興《ぼっこう》のころ女優となったりして、男舞いを売物に地方を廻っていたが、終りはあまり知れなかった。お倉は妓籍にあるころよりも、横浜開港に目をつけて、夫と共に横浜に富貴楼の名を高め、晩年も要路の人々の仲にたって、多くの養女をそれぞれの顕官に呈して、時世の機微を覗《うかが》い知っていた。有明楼おきくは、訥升《とつしょう》沢村宗十郎の妻となって――今の宗十郎の養母――晩年をやすらかに逝《い》ったが、これまた浅草今戸橋のかたわらに、手びろく家居《かきょ》して、文人墨客《ぶんじんぼっかく》に貴紳に、なくてならぬ酒亭の女主人であった。
芳町《よしちょう》の米八《よねはち》、後に今紫と一緒に女優となって、千歳米波《ちとせべいは》とよばれた妓《こ》は、わたしの知っている女の断髪の最初だと思
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