て、玄関に立った彼女は、その家の主、久佐賀《くさか》先生というのは、何々道人とでもいうような人物と想像していたのであろう。秋月と仮名《かめい》して取次ぎをたのんだ。
 彼女は久佐賀某に面接したおり、
(逢《あい》見ればまた思ふやうの顔したる人ぞなき)
と、『つれづれ草』の中にある詞《ことば》を思出しながら、四十ばかりの音声の静かにひくい小男に向《むき》合った。
 鑑定局という十畳ばかりの室《へや》には、織物が敷詰められてあり、額は二ツ、その一つには静心館と書してあり、書棚、黒棚、ちがい棚などが目苦《めまぐるし》いまでに並べたててあり、床《とこ》の間《ま》には二幅対《にふくつい》の絹地の画、その床を背にして、久佐賀某は机の前に大きな火鉢を引寄せ、しとねを敷いていて彼女を引見したのであった。
「申歳《さるどし》の生れの廿三、運を一時に試《ため》し相場をしたく思えど、貧者一銭の余裕もなく、我力にてはなしがたく、思いつきたるまま先生の教えをうけたくて」
と彼女は漸くに口を切った。それに答えた顕真術の先生は、
「実に上々のお生れだが金銭の福はない。他の福禄が十分にあるお人だ。勝《すぐ》れたところをあげれば、才もあり智もあり、物に巧《たくみ》あり、悟道の縁《えに》しもある。ただ惜むところは望《のぞみ》が大きすぎて破れるかたちが見える。天稟《てんぴん》にうけえた一種の福を持つ人であるから、商《あきな》いをするときいただけでも不用なことだと思うに、相場の勝負を争うことなどは遮《さえぎ》ってお止めする。貴女はあらゆる望みを胸中より退《のぞ》いて、終生の願いを安心立命しなければいけない。それこそ貴女が天から受けた本質なのだから」
と言った。彼女は表面|慎《つつま》しやかにしていても、心の底ではそれを聴いてフフンと笑ったのであろう。
「安心立命ということは出来そうもありません。望みが大に過ぎて破れるとは、何をさしておっしゃるのでしょう。老たる母に朝夕のはかなさを見せなければならないゆえ、一身を贄《にえ》にして一時の運をこそ願え、私が一生は破《や》ぶれて、道ばたの乞食《こじき》になるのこそ終生の願いなのです。乞食になるまでの道中をつくるとて悶《もだ》えているのです。要するところは、よき死処がほしいのです」
と言出すと、久佐賀は手を打っていった。
「仰《おっ》しゃる事は我愛する本願にかなっている」
 彼女と久佐賀との面会は話が合ったのであろう。月を越してから久佐賀は手紙をもって、亀井戸の臥龍梅《がりょうばい》へ彼女を誘った。手紙には、
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君が精神の凡ならざるに感ぜり、爾来《じらい》したしく交わらせ給わば余が本望なるべし
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などと書いたのちに、
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君がふたゝび来たらせ給ふをまちかねて、として、
  とふ人やあるとこゝろにたのしみて
      そゞろうれしき秋の夕暮
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と歌も手も拙《つた》ないが、才をもって世を渡るに巧みなだけな事を尽してあった。とはいえ、それを受けたのは一葉である。そんな趣向で手中にはいると思うのかと、直《すぐ》に顕真術先生の胸中を見現《みあらわ》してしまった。日本全国に会員三万人、後藤大臣並びに夫人(象次郎《しょうじろう》伯)の尊敬|一方《ひとかた》でないという先生も、女史を知ることが出来ず、そんな甘い手に乗ると思ったのは彼れが一代の失策であったであろう。
 彼女は久佐賀の価値《ねうち》を知った。彼れは世人の前へ被《かぶ》る面で、彼女も贏得《かちう》ることが出来ると思ったのであろう。彼女の手記には利己流のしれもの、二度と説を聴けば、厭《いと》うべくきらうべく、面に唾《つば》きをしようと思うばかりだとも言い、かかるともがらと大事を語るのは、幼子《おさなご》にむかって天を論ずるが如きものだ、思えば自分ながら我も敵を知らざる事の甚だしきだと、自分をさえ嘲笑《あざわら》っている。けれども久佐賀の方では、自分の方は名と富と力を貯えているものだと、慢じていたのであろう。そしてその上に、一葉の美と才と、文名とを合せればたいしたものだと己惚《うぬぼれ》たのであろう。他の者には洩《もら》すのさえ恥《はじ》ているだろうと思われる貧乏を、自分だけがよく知っていると思いもしたのであろう。まだそれよりも、彼女が親と妹のために、物質の満足を得させたいと願っている弱みを、彼れは自分一人が承知しているのだと思い上っていた。それのみならず彼れは、一葉を説破しえたつもりでいたかも知れない。
 久佐賀は、金力を持って、さも同情あるように附込《つけこ》んでゆこうとした。そうした男ゆえ、俺ならば大丈夫良かろうと錨《いかり》をおろしてかかったのかも知れない。ともかく彼れはやんわりと、勝気
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