調理ものは、いつのよいかにして賜はることを得べきなど思ひ出《いづ》るまゝに有しこと恋しく、世の人のうらめしう、今より後の身心ぼそうなど取あつめて一つ涙ひぬものから、かく成行《なりゆき》しも誰ゆゑかは、その源はかの人みづから形もなき事まざ/\言触しうしたればこそ……
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とあるが、その実は野々宮某という女友達の嫉妬《しっと》から言触らされたのを知らなかったのである。
 彼女は恋人から離れたと思い信じたが、彼女の心はそうゆかなかった。或時は、
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吹風のたよりはきかじ荻《おぎ》の葉の
    みだれて物を思ふころかな
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とまで思い乱れ、またある時は伯父《おじ》の病床に侍して(かゝる時の折ふしにも猶《なお》彼の人を忘れ難きはなぞや)といい、ある時は用もなきに近き路《みち》をえらんでゆき、その人の住む家の前を通りて見、その家の下女《げじょ》に行逢《ゆきあ》いて近状を聞き、(万感万嘆この夜|睡《ねむ》ることかたし)と書いたのは、彼女の青春二十一歳のことであった。次の年の一月二十九日雪の降るのを見つつ、
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わが思ひ、など降る雪のつもりけん
    つひにとくべき中にもあらぬを
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と嘆き四月の雨の日の記には、
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わが心より出たるかたちなればなどか忘れんとして忘るゝにかたき事やあると、ひたすら念じて忘れんとするほど、唯身にせまりくるがごとおもかげのまのあたりに見えて得《え》堪ゆべくも非《あら》ず、ふと打みじろげばかの薬の香のさとかをる心地して思ひやる心や常に行通ふとそゞろおそろしきまでおもひしみたる心なり、かの六条の御息所《みやすどころ》のあさましさを思ふにげに偽りともいはれざりける。
    おもひやる心かよはゞみてもこん
        さてもやしばしなぐさめぬべく

    恋は、
見ても聞きてもふと思ひ初《そ》むるはじめいと浅し、
いはでおもふいと浅し、
これよりもおもひかれよりも思はれぬるいと浅し、
これを大方《おおかた》のよに恋の成就《じょうじゅ》とやいふならん、逢《あい》そめてうたがふいと浅し、
わすられてうらむいと浅し、
逢んことは願はねど相思はん事を願ふいと浅し、
名取川《なとりがわ》瀬々のうもれ木あらはればと人のため我ためををしむ
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