何故《なぜ》というのに、自分ばかりのことでなく、母もあれば兄妹《きょうだい》もあるので」
と答えた。
「では言わなければならないことでありますが、貴女は半井さんと交際を断つ訳にはいかないでしょうか」
といった。
彼女は友の視線があまりまぶしいので、何事と知らねど胸の中にもののたたまるように思われた。
「妙なことを仰しゃるのね。それは何時《いつ》ぞやもお咄《はなし》したとおり、あの方はお齢《とし》も若いし、美しい御顔でもあるし私が行ったりするのは、憚《はば》からなけりゃなるまいと思っています。幾度交際を断とうと思ったかも知れはしません。けれど受けた恩義もあり、そうは出来かねているのよ、私というものの行いに、汚れのないのを御存知でありながら……」
と彼女は怨《うら》みもした。
「そりゃあ道理はそうですけれど――まあ訳はいずれ話しますが、どうしても交際が断てないというのならば、私でも疑うかもしれませんよ」
そういって友は立別れた。一葉は、ふとその日の訝《いぶか》しい友の言葉を思い出したので、歌子によってその惑いを解いてもらおうとしたのであった。
「半井さんの事は先生がよく御承知であって、訪問をお止めにならないのを、何ぞ噂するのでございましょうか」
と歌子にたずねた。すると歌子の返事は、実に意外に彼女の耳に鳴り響いた。
「では、行末の約束を契ったのではないのか」と。
彼女は仰天して、七年の年月を傍においた弟子の愚直な心を知らないのかと、怨《うら》み泣いた。
「でも、半井氏という人は、お前は妻だと言《いい》触らしているというではないか。もし縁があってゆるしたのならば、他人がなんと言おうとも聞入れないがよい。もしそうでないのならば、交際しない方がよいだろう」
と歌子は諭《さと》した。それ故にこそ彼女は梅雨の日を訪ずれたのである。そして、絶交する人の目に、島田に結んだ姿を残そうとしたのである。
愛するあまりに、妻とも言ったであろうかの恋人に、その故に絶交しなければならない彼女は、たった一月前には思う人の病を慰めるためにと、乏しい中から下谷の伊予紋《いよもん》(料理店)へよって、口取りをあつらえたり、本郷の藤村へ立寄って蒸《むし》菓子を買いととのえたりして訪れていた。ある時は、朝早くから訪れて午過《ひるす》ぎまで目ざめぬ人を、雪の降る日の玄関わきの小座敷につくねんと、火桶《
前へ
次へ
全26ページ中22ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング