といへるが、また、さうばかりもいひきれないのがあの世界だ。岡本さんや眞山さんといつた硬骨の人がなければ、作家へ對する態度は、もつと、傍若無人で惡い状態でつゞいたかもしれない。
隨筆といへば、あれは隨筆ではないが、「支那怪奇小説集」の譯をわたくしは愛讀してゐる。綺堂ものの中には「修禪寺物語」をはじめ、あの方のフランス文學に造詣の深いことを證據だててゐるが、支那の文學にあんなにまで徹してゐられることを、一般の人はよく知らないであらう。そして、それが、どんなに岡本さんの文學の血と膏になつてゐるかを見ると、勉強といふことを實によく教へられる。たしか「兩國の秋」といつたかと思ふが、尾上梅幸が帝國劇場で上演した蛇つかひの女の執念。それから、あれもたしかに綺堂さんの作《さく》と思つたが、菊五郎、梅幸で演じた「お化け師匠」踊りの師匠の妄念――それから小説では半七捕物帳の中の「むらさき鯉」その他。それらは「支那怪奇小説集」の譯者なればこそだと、その完全に咀嚼しつくされた妙味に、なんともいへないうま味を感じる。いまは早や、故き人の、潔癖とかんしやくの話をよくきいたが、それは、前に引いた、八歳の童兒の憤慨を知れば當然のことと思へるし、それが貴かつたのだが、わたくしはまた、小時間づつしかお目にかからなかつたせゐか、何時も、ものやさしい機嫌のいい、話好きの一面にしか觸れてゐない。わたしに親しく話かけてくださつたのは、もう三十年近くも前にならうか「あなたとわたくしと兄妹になつて阪地《かみがた》へ行きますよ」と、脚本が一番目二番目に組みあはせられるといふ事をきかせてくださつた時であつたと思ふ。ほんとに長い日がいつか逕《た》つてしまつたものだ。
底本:「舞臺 岡本綺堂追悼號」舞臺社
1939(昭和14)年5月1日発行
初出:「舞臺 岡本綺堂追悼號」舞臺社
1939(昭和14)年5月1日発行
入力:門田裕志
校正:野口英司
2010年2月18日作成
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