斎の食指のムズムズしないわけはない。
――今日錦嬢と――
という文字は、美妙斎の日記二十四年の末からはじまっている。二十五年にいたっては、ますます頻繁《ひんぱん》だ。
ある時は、上野|摺鉢山《すりばちやま》――あの、昼も小暗《おぐら》く大樹の鬱蒼《うっそう》としていた、首くくりのよくある場所――上野公園のなかでも、とくに摺鉢山。ある時は九段――これも、日中あまり人通りがなかった場所だ。ある時は根津《ねづ》の旗亭《きてい》での食事。
ここで、一言《ひとこと》筆者が申したいのは現今、どなたの稲舟《いなぶね》研究にも、十九で死んだことになっているが、わたしは二十三歳と信じていた。ずっと前に書いた小伝にも根拠があって二十三と書いたのだが、この稿をはじめる時、あまり他の年譜を信じすぎて、自分の思いあやまりかと諸説にしたがい、末年を十九にとったために、年に無理が出来て来た。で、美妙が錦子の肩上げを見たところは十七であったが十八にしていただきたい。もっとも、錦子の生れた地方も、他の、みちのくの国々とおなじに、丸年《まるどし》で――満幾歳で数えていたとすれば、こじつけられないこともない。
写真も古い『文芸倶楽部』に出ていたのは、何処やら野暮くさいが、二十三の春にうつした婚礼の丸髷のは、聡明で、しとやかで、柔らかみがあり、品のある顔と、しなやかな姿だった。
さて、傍見《わきみ》をしないで、急ぎましょう。
十九になった錦子は、小暗い木蔭の道路での、美妙斎の肘《ひじ》の小突き工合や、指の握りかた、その他のあしらいの荒っぽさや、丁寧さが、女の心を掴むのに、活殺自在であることを、なんとなく感知した。
側にいても、身が縮まるような悦びは、それはもう、とうに過ぎさった日となった。今は、美妙が接する女は、自分ばかりでないのを知って悲しかった。
――あたしはこんなことを仕《し》に来たのではない。
そんなふうに、冷たく自分を叱ることもある。
――こんなことで、一葉に負けない小説が書けるか――
悦びといまいましさと、切なさが、幻燈の花輪車《かりんしゃ》のように、赤く黄色く青く、くるくると廻る――そんな時に、国|許《もと》へ帰れと呼びかえされた。
「お父さんが、あんなに、お前の、書いたり読んだりするのを嫌がって、厳しくなさったのを、学校を勉強するからと出してあげたのだ。」
それがまあ、とんでもない女になって――と、可愛がった祖母までが怒っているという。
七面鳥とは、派手に美しい錦子の洋服姿であり、昨日の優美な娘風と、一夜に変ったスタイルを、書生たちは言現《いいあらわ》したのであろうが、錦子は、たしかにその頃から、沈んだり、はしゃいだりすることが多くなった。
「あたし、郷里《くに》へ帰らなきゃならないのよ。だけど、いいわ。あっちにいて、思いっきり勉強するの、好いもの書くわ。」
そう言って泣かれた友達は、それも好いかも知れないと慰めて、
「なにしろ、あんまりあなた、美妙斎が好きすぎるもの。『いらつ女《め》』に書いてる女《ひと》にも何かあるんだって? 困るわねえ、浅草にもだってね。」
自分の好きな男は、他女《ひと》も好きなのだ――そんなふうに簡単に錦子に考えられたろうか?
錦子はこんなふうに思うこともある。阿古屋姫《あこやひめ》とは誰だろう――そもじは阿古屋の貝にもまさった宝と、何かに書いてあったが誰だろう。あたしかしら?
――甘いささやき――
銀蜂《ぎんばち》がブンブン言っているのでも、郷里《くに》へ帰った錦子は、ものごとが手につかなかった。
だが、ふと、美妙の手許にあった、薄すべったい、青黒い表紙の雑記帳を、一ひらめくって見た、厭《いや》な思い出もおもいださないことはない。表紙うらに鉛筆のはしり書きで、
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奈《な》まじいにあひ見る事のつれなきに
さりともあはで返されもせず
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廿四年十一月六日作とあった。あれが、わたしへの、ほんとの美妙の心ではないかとも思い、いえ、そんなことは決してないはずだとも打消した。
しかし、どうも、それは、はずでばかりはなかったようだ。人の心は微妙であるから、なんとも他《ほか》からはっきりは定《き》められないが、美妙斎はそのころから関係のあった、浅草公園の女、石井|留女《とめじょ》を、九月|尽日《じんじつ》に落籍《らくせき》して、その祝賀を、その、おなじ雑記帳へも書いているのだ。
この女の人を、後《のち》におっぽりだしたので、『万朝報』でたたかれて、美妙斎は失脚の第一歩を踏んだのだったが、留女を落籍した日は暴風の日であって、一直《いちなお》から料理をとって祝った。茶碗もりや、鯛《たい》の頭附《かしらつ》きの焼もので、赤の飯で囃《はや》したてたのだ。その後、
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