みすぎ》も、書くための、命をささえる代《しろ》なのだろう。」
と、それは、思いやりのある暗い眼つきをしたが――ああ、やっぱり、競《くら》べものにはならないのだ。好い気になって、のんきな気持ちで聴いていたが――
(じゃあ、あたしは、何を目的に、一生懸命になったら好いのだ。)
自問自答すると、(恋愛)という答えしか出なかった。そしてまた、その目標は美妙斎だと思わないわけにはいかなかった。
錦子が神保町《じんぼうちょう》へおりてくると、広い間口をもった宿屋の表二階一ぱいに、書生たちが重なって町を見おろしていた。この附近は下宿屋が門並《かどなみ》といっていいほどあって、手すりに手拭《てぬぐい》がどっさりぶらさがっていたり、寝具を干してある時もあるが、夕方などは、書生の顔が鈴なりになっているのだった。
書生たちが見おろしていたのは、ヨカヨカ飴屋《あめや》が来ているからだったが、飴屋は、錦子を見ると調子づいた。
ヨカヨカ飴屋は二、三人|連《づれ》で、一人が唄《うた》うと二人が囃《はや》した。手拭で鉢巻きをした頭の上へ、大きな盥《たらい》のようなものを乗せて、太鼓を叩《たた》いているが、畳つきの下駄を穿《は》いた、キザな着物を東《あずま》からげにして、題目太鼓の柄にメリンスの赤いのや青いきれを、ふんだんに飾りにしている、ドギツい、田舎《いなか》っぽいものだった。
ドドンガ、ドドンガと太鼓を打って、サイコドンドン、サイコドンドンと囃《はや》した。錦子が通ると錦子に呼びかけるように、
――お竹さんもおいで、お松さんも椎茸《しいたけ》さんも姐《ねえ》ちゃんも寄っといで。といやらしく言って、
――恋の痴話文《ちわぶみ》ナ、鼠《ねずみ》にひかれ猫をたのんで取りにやる。ズイとこきゃ――と一人が唄うと、サイコドンドン、サイコドンドンとやかましく囃したてた。
二階から書生どもはワッと笑いたてた。
錦子はカッとして、どんどん寄宿している叔父の家へ帰ってくると、一層不機嫌になっていた。孝子のところから手紙が来ているといわれても、ちっとも嬉《うれ》しくなかった。
それでも手紙は気になった。急いであけて見ると、
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――先達《せんだっ》ての「見立」の続きをお知らせいたします。あなたの好きな方のお名もありますから、早くお知らせいたしたく、お目にかかるまでとっておけないので手紙にしました。お礼をおっしゃい。
「文壇女性見立」
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女教師鴎外、芸妓紅葉、女生徒|漣《さざなみ》、女壮士|正太夫《しょうだゆう》、権妻《ごんさい》美妙、女役者|水蔭《すいいん》、比丘尼《びくに》露伴、後室《こうしつ》逍遥、踊の師匠眉山、町家の女房柳浪。
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それからね、衆議院議員見立には、山田美妙斎は改進党の島田しゃべ郎(三郎)よ。偉いのは田辺竜子と小金井貴美子と、若松|賤子《しずこ》の三人が、女でも、その仲間にはいっていました。
「当世作者忠臣蔵見立」というのでは、
由良之助《ゆらのすけ》が春のや(逍遥)で、若狭之助《わかさのすけ》が鴎外で、かおよ御前《ごぜん》が柳浪、勘平《かんぺい》が紅葉で、美妙はおかるよ。力弥《りきや》が漣《さざなみ》山人なの。定九郎《さだくろう》が正太夫なのは好いわね。
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錦子は、おかるが美妙というところで、クスンと鼻で笑ったが、嬉しくなくはないが、なんとなく浮きたたなかった。
その晩の出来ごとで、もひとつ錦子を悲しませたことが出来た。
二、三年前から女の髪剪《かみき》りがはやっていたが、最初は、黒い歯の鋭い虫が噛《か》みきるのだといって下町の女たちは、極度に恐れて、呪文《じゅもん》を書いた紙をしごいて、髪に結びつけたりしていたが、そのうちに、なんでもそれは、通り魔のようなもので、知らないうちに髷《まげ》を切られたり、顔を斬られたりするのだといった。
美しい娘で、外に立っていたらば、突然、痛いと思うと、頬《ほっ》ぺたから血がにじみだしたというようなことは、眼につきやすい女に多かった。
錦子が、朝目ざめて見ると、唐人髷がころりと転《ころ》がりおちた。
ハッと唇の色を変えて、錦子は顫《ふる》えあがったが、いたずらものが忍び込んだ形跡もないので家の者たちは神業《かみわざ》だと、禍《わざわい》のせいにした。他分、表で斬られたのを、枕につくまで落ちずについていたのであったろう。だが錦子は、いやあな予感がしたのだった。
七面鳥の錦嬢《きんじょう》という名を、近所の書生たちからつけられたのは、唐人髷を切られてからだった。
短かい髪を二ツに割《わ》けて、三ツ編《あみ》のお下げにし、華やかな洋装となった錦子の学校通いは、神田、本郷の書生さんたちの血を沸騰させた。美妙
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