朱舜水《しゅしゅんすい》が、小赤壁《しょうせきへき》の名を附したほど、茗渓《めいけい》は幽邃《ゆうすい》の地だった。
徳川幕府の士人の大学、昌平黌《しょうへいこう》聖堂の森は、まだ面影を残し、高等師範学校の塀《へい》は見えるが、かかったばかりのお茶の水橋は、細く、すっと、好《い》い恰好《かっこう》だ。錦子も立って眺めた。鶯《うぐいす》がささ鳴きをし、目白《めじろ》が枝わたりをしている。人声もきこえぬ静かさで、何処からか謡《うたい》の鼓《つづみ》の音がきこえてくる。
「君は、やっぱり一ツ橋の女子職業学校にしましたか?」
美妙斎は錦子を、傍におきたい慾望をもって言った。
東京見物をするならばと誘われたが、錦子は、麹町《こうじまち》の女学校に、おなじ郷里から来ている友達が、外まで迎えに来てくれているはずだからと断った。
帰りがけに、書いて持って来ていた小説を、美妙の机の横において、目を通してくれといった。山田の門口《かどぐち》まで迎いに来ていたのは進藤孝子という仲のよい友達で、その女の生家も、鶴岡市の医者だった。
錦子と孝子が逢えば、話はいつも詩のことだった。孝子は新体詩を好んだので、美妙が、美しい詩ばかりでなく、「貧」というのでは、紙屑《かみくず》買いをうたっているといえば、錦子は、坑夫の詩もあるし、車夫の小説もあると負けずに言う。
この二人が文壇の見立《みたて》を探しだして、面白がって、くらべっこをした。
「凌雲閣《りょううんかく》登壇人(未来の天狗《てんぐ》木葉武者《こっぱむしゃ》)ってのがあるわ。浅草公園、十二階のことでしょ。」
錦子が展《ひろ》げると、孝子が首をのばして、
「エレベエタア休止中、螺旋《らせん》階にて登りし人――とあるわ。」
と、読みだした。
「頂上十二階までが、春のや主人――坪内逍遥《つぼうちしょうよう》よ。それから、森鴎外、森田|思軒《しけん》、依田学海《よだがくかい》、宮崎|三昧道人《さんまいどうじん》。」
「あたしにも読ましてよ。」
と錦子は引きとって、
「エレベエタアにて一分間に登りし人、頂上十二階まで紅葉山人、露伴子、美妙斎主人――いいわね。」
錦子は、苺《いちご》のような色の濡《ぬ》れた唇で、
「十一階が二葉亭だわ。それと、漣山人《さざなみさんじん》。十階に広津柳浪《ひろつりゅうろう》と江見水蔭《えみすいいん》よ。五階
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