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 これは、建治二年十二月九日に身延から佛道《みち》の教へに答へられた長い書簡の書出しである。
 おなじ松野殿へ、弘安元年五月一日に與へられたのには、

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日月《じつげつ》は地におち、須彌山《すみせん》はくづるとも、彼《かの》女人《によにん》、佛《ほとけ》に成《な》らせ給《たまは》ん事疑なし。あらたのもしや、たのもしや
干飯《ほしいひ》一|斗《と》、古酒《こしゆ》一筒《ひとづつ》、ちまき、あうざし(青麩《あをふ》)、たかんな(筍)方々《かた/″\》の物送り給《たま》ふて候。草にさける花、木の皮《かは》を香《かう》として佛《ほとけ》に奉る人、靈鷲山《れいしうざん》へ參らざるはなし。況や、民《たみ》のほねをくだける白米《しらよね》、人の血をしぼれる如《ごと》くなるふるさけを、佛《ほとけ》法華經《ほけきやう》にまいらせ給へる女人《によにん》の、成佛得道疑べしや。
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 これは全文である。この、況《いはん》や民の骨をくだける白米、人の血を絞れるごとき古酒、といふ言葉は白米《おこめ》が玉のやうに、白光《しろびか》りに光つて見える。民の骨を碎ける白米《しらよね》、民の骨を碎ける白米《しらよね》! げに有難い言葉ではないか。
 この松野殿女房――後家尼御前《ごけあまごぜ》に與へられた、も一通の消息にも身延隱棲の自然が叙されてある。

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麥《むぎ》一箱、いゑのいも(里芋《さといも》)一|籠《かご》、うり一籠、旁《はた》の物《もの》、六月三日に給ひ候ひしを、今迄御返事申候はざりし事|恐入《おそれいり》候《さふらふ》。此《この》身延《みのぶ》の澤《さは》と申す處は、甲斐の國|飯井野《いひゐの》、御牧《みまき》、波木井《はきゐ》三|箇郷《かがう》の内、波木井郷《はきゐがう》の戊亥《いぬゐ》の隅にあたりて候。北には身延嶽《みのぶたけ》天をいただき、南には鷹取《たかとり》が嶽《たけ》雲につづき、東には天子《てんし》の嶽日《たけひ》とたけをなじ、西には又、峨々《がゝ》として大山つづきて白根《しらね》の嶽《たけ》にわたれり。※[#「けものへん+爰」、第3水準1−87−78]《さる》のなく音《こゑ》天《てん》に響き、蝉のさえづり地にみてり。天竺《てんぢく》の靈山《れいざん》此處に來れり。唐土《たうど》の天台山《てんだ
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