、もぎつた枝あとの、青い葉の影には、金色の小蜘蛛がかくれてゐる。わたしは愚かにも、その金色の小蜘蛛に化した大仙女西王母を夢《ゆめ》見て、時刻《とき》を消しては、あわてたりしてゐる。
 人は、あまり人を可愛がると、食べてしまひたいほどだといふが、わたしは、熟した桃を見ると、食べてしまふのがをしくなる。あの淡黄色に、ポツと赤味のさした、生毛のある、赤ン坊の頬のやうな薄皮から、甘露といふと古くさいが、金色のあぶらのやうな液體を、細かくふくんで吹いてゐる生《いき》々しさ――それは實に人間に近い美を持ち、人間的な感覺だともいへる。新鮮な肉の感じといふ方は、裂きたての西瓜に感じもするが、桃がわたしに感じさせるものは、もつと高貴的で、精神的で、デリケートな、ちよつと言ひ現はしにくいものだ。
 いつであつたか、上野で、ある展覽會に、ある人の描いた「桃」を見たが、あまり大きくもない畫面の、たつた一個の桃に引きつけられて、いつまでも佇んでゐた。不用意にも畫家の名は忘れてしまつたが、いまだにそのにじん[#「にじん」に傍点]だ描きかたが目のなかに殘つてゐる。その畫はかなり現實的で、人間を思はせるものだつたが、
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