があるから焦りはしない。その人たちが惜しむのは自然の姿の破されることで、そのしほらしい愛惜の念は、江戸の昔に名殘をとどめてゐた水郷ふうの田園風景が、東京の發揚にしたがひ、爛熟した江戸情緒の失はれるのとともにほろびて消えてしまふのを、惜しむのと似た氣持ちだが、さうした牧歌的なものをこの近代都市の中から、異つたかたちでめつけだしてゆくのも面白いことであれば、廣くいへば、それらは都會の外に求むべきもので、田園の故郷を、この都のなかの隨所に、殘存させようといふのが無理なのだ。
だが、大都會となればなるだけ、緑地帶はほしい。公園は多趣多樣なのが澤山ほしい。高松宮家より頂いた麻布の公園や、井の頭の恩賜公園や上野や芝など、どうかあんまりもとの自然を損じないでその土地の、古昔のままの樹木や、土の起伏を保存したいものだ。いはゆる公園風なものと改惡してしまはないことを望んで止まない。その保存によつて、いま三、五十年もたてば、ありのままの、その土地の、日本の古さを物語る、大事な大事な記念のものとなるのは知れてゐる。人工の美、機械の美をつくした近代都市の中央に、自然林をもつた公園、その一木一草に、あとから植ゑこんだのではない、その土地|根生《ねお》ひの教材が繁茂してゐることは、心ある後代の人をして、よく殘しておいてくれたと悦ばれることであらうし、その土地を語る大切なことであるから、地元の住民は、極力原型保存を守らなければならない。
宮城外一帶の、あの美觀を見るほどのものみなが、どんなに自分の生れた國を心に深く知ることか――
故郷《ふるさと》の山野をもたぬこの大都の子供たちに、公園は遊ぶところであつて、そして、都會の成りたつてゐる土地の靈に、ぴつたりと抱きつかせる歴史を――それを持つてゐる自然公園では、地形の上に、一草の上にも、無言で語つてくれるものを殘して止めおきたい。
新東京風景を撰めば、丸の内の宮城の廻りを第一に推す。
雪の日に、雨の日に、風の日に、冬に、春に、秋に、夏に、日和の日の、空高く晴れたのもいふまでもなくよい。
打ち展いた空を自由に眺められない、繁華な街にうまれたからだといはれるかも知れないが、私は、どんな心急《こゝろせは》しい時でも、車があの邊にかかると、ふつと窓から空を見上げるのが習慣《ならひ》になつてゐる。夜晝の差別なく眺めやる。おゝ冬だな、おゝ夏だなと―
前へ
次へ
全4ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング