け説きすすめて、芸の人として立たせる第一歩の導きをしたのである。お園は竹本玉之助となり、浅草|猿若町《さるわかちょう》の文楽座に現われることになった。真打ちはその頃の大看板竹本|京枝《きょうし》であった。
明治十八年――世にいう鹿鳴館《ろくめいかん》時代である。上下|挙《こぞ》って西洋心酔となり、何事にも改良熱が充満していた。京枝一座も御多分《ごたぶん》に洩《も》れず、洋装で椅子《いす》にかけ卓《テーブル》にむかって義太夫を語った。そんな変ちきな容《かたち》も流行といえば滑稽《こっけい》には見えず、かえって時流に投じたものか連日連夜の客止めの盛況であった。が、勇みたった玉之助のお園の初目見得《はつめみえ》は、思いがけぬ妬《ねた》みを買った。京枝の弟子の竹子は、かなりの人気者であったが、玉之助が出現して、麒麟児の名を博してからは、月に光りを奪われた糠星《ぬかぼし》のように影が薄くなってしまった。それかあらぬかこの大入りの興行が、突然何の打合せもなしに、狼藉《あわて》ふためいて興行主から中止されてしまった。それは太夫元がふと恐しい密謀を洩れ聞いたので、前途のある玉之助のために、実入《みい》りのよい興行を閉場《とじ》てしまったのであった。それは、その日の玉之助の高座に用いる湯呑のなかへ、水銀を白湯《さゆ》にまぜておくという秘密を知ったからだった。
そんな事がかえって玉之助の名を高く揚げさせた。玉之助は子供心にも師に附かなければならないと考え、故人綾瀬太夫のもとへ弟子入りをした。何という名を与えようかと師匠が考えているうちに、お園は自分で綾之助と名附けたと言出した。このまけぬ気の腕白者は、出京早々から肩を入れてくれた久松町の医者某が、大連《たいれん》を催してくれた夜に、語りものの「鎌倉三代記」を絶句して高座に泣伏してしまった。全く彼女の記憶力は強かったので、彼女は無本《むぼん》で語り通していたのであった。
十二歳の春には、もはや真打《しんうち》となるだけの力と人気とを綾之助は集めてしまった。綾之助のかかる席の、近所の同業者は、八丁|饑饉《ききん》といってあきらめたほどであった。新川《しんかわ》のある酒問屋の主人は贔屓《ひいき》のあまり、鉄道馬車へ広告することを案じだした。それも多くの人目をあつめたに違いなかったが、初《はつ》真打綾之助に贈られた高座の後幕《うしろまく
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