の銘酒を五合ばかり飲んで、親たちや養母を驚ろかせたりした。
 新町のある茶屋に、素人《しろうと》義太夫の稽古《けいこ》会があった。素人といっても、咽喉《のど》からして義太夫そのものに合った音声を持つ土地ではあり、ことに土地で生れた芸ではあり、父祖代々、耳に親しんできた馴染《なじみ》の深い、鍛錬のある人たちのあつまりのこととて、到底よその土地の旦那芸とは一つにならない人たちのあつまりであると同時に、こればかりは、何処《どこ》でもかわらない自慢|天狗《てんぐ》の旦那芸の集りであった。後見役《こうけんやく》には師匠筋の太夫、三味線|弾《ひ》きが揃《そろ》って、御簾《みす》が上るたびに後幕《うしろまく》が代る、見台《けんだい》には金紋が輝く、湯呑《ゆのみ》が取りかわる。着附《きつけ》にも肩衣《かたぎぬ》にも贅《ぜい》を尽して、一段ごとに喝采《かっさい》を催促した。其処《そこ》へ平日着《ふだんぎ》のまま飛込んだのが、町内の腕白者《わんぱくもの》男おんなで通るお園であった。自分も一段語りたいといった。人々は面白がって子供にからかって、
「そんなに仲間入りがしたければ、三味線弾きをつれておいで」
といった。お園は早速|四辺《あたり》を見廻して、一人の師匠を指さした。その人はにこにこして「鈴が森」を弾いてくれたが、それは誰あろう当時の名人|竹本住太夫《たけもとすみたゆう》であった。住太夫はお園の胆気《たんき》と、語り口の奥床《おくゆか》しいのに打込んで、これこそ我が相続をさせる者が見つかったと悦《よろこ》んだ。もとより男の子だとばかり信じてしまったので、何でも養子に貰《もら》いたいとお勝を困らせたが、女だと分ると非常に失望して悔《くや》しがった。けれどもそれからは心を入れて教え導びいた。それも七歳《ななつ》のこと。
 お園は明治八年の六月の生れで、初夏の、溌剌《はつらつ》とした生れだちである。養母のお勝も気が勝っている、その上に、女中がわりに人形操《あやつ》りの山本三の助というものの母親がいた。その女が東京へ出ることになったおり、お園親子にも上京を勧めた。それが綾之助となる動機――振りだしで、お園が十一歳のおりのことである。日本橋久松町に住む近親をたよってゆくと、その人が知己《しりあい》を招いてお園の浄るりを聞かせた。それが東京での封切りであった。その折、市村座の座主がお園に目をつ
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