だと、お察しすることが出来ます。
明治の文壇に、才媛《さいえん》の出身者を多くだしたのは麹町《こうじまち》の富士見小学だときいております。岡田八千代《おかだやちよ》女史も、国木田治子《くにきだはるこ》女史も富士見小学で学ばれました。楠緒女史もお二人よりは、早くの出身でした。一橋《ひとつばし》の高等女学校を卒業なされて、博士の留学のお留守中にも、明治女学校に通《かよ》い、松野フリイダ嬢に学び英語を専習されました。ピアノは和歌と同門の友|橘糸重《たちばないとえ》女史に教えられてお出でした。絵画ははじめ跡見玉枝《あとみぎょくし》女史に、後には橋本雅邦《はしもとがほう》翁に学ばれました。いつでしたかずっと前に、天女《てんにょ》が花を降らせている画《え》をある展覧会で見うけたことがありました。口の悪い評家はかっぽれ[#「かっぽれ」に傍点]天女なんぞと酷評したことがあってから、公開の席では見ることが出来なくなりました。
多能な女史は料理についても研究なされて、小集会などもよく催されたようでした。
名誉ある学者の夫人、幸福な家庭の女王、作者としては充分な学殖《がくしょく》と貴《たっと》き未来とをもった、若く美しい楠緒女史は春のころからのわずらいに、夏も越え、秋とすごしても元気よく顔の色もうつくしく、語気も快活に癒《いゆ》る日を待ちくらして、死ぬ日の五日《いつか》まえには、
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籠《こも》り居《い》は松の風さへ嬉しきに心づくしの人の音《おと》づれ
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と竹柏園主佐佐木博士のもとへ葉書をよせられたりなされました。
墓表《ぼひょう》を書かれた人は、楠緒さんの御婚礼のときに、結納書をかかれた人と同じ老人だということを聞いて、葬式《ほうむり》の日にお友達方は墓表をながめては嘆かれました。
竹柏園先生は、
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ゆく秋の悲しき風は美しきざえある人をさそひいにける
うつくしきいてふ大樹《おおき》の夕づく日うするゝ野辺《のべ》に君をはふりぬ
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橘糸重女史は、
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重き気《け》の我身にせまる暗き室《へや》に、君がためひくかなしびの曲
胸にそゝぐ涙のひぎき堪《た》へがたし、暗《やみ》にうもれて君しのぶ時
心あひの友といふをもはゞかりしかひなき我は世にのこれども
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