くのは悪いと思いながら、楠緒女史が生《いき》て見えますので、ほんの影だけでもうつさせて頂《いただ》きたいと、私は大胆にもその事まで此処へ取りいれました。
 夏目先生が千駄木《せんだぎ》にお住居《すまい》であったころ、ある日夕立の降るなかを、鉄御納戸《てつおなんど》の八間《はちけん》の深張《ふかはり》の傘《かさ》をさして、人通りのない、土の上のものは洗いながされたような小路を、ぼんやりと歩いていらっしゃると、日蔭町というところの寄席《よせ》の前で一台の幌車《ほろぐるま》にお出合なされました。セルロイドの窓が出来ない時分であったので、先生は遠目にも乗っているのは女だという事にお気がおつきでした。車の上の人は無心にその白い顔を先生に見せているのが、先生の眼に大変美しく映ったので、凝《じっ》と見惚《みと》れていらっしゃるうちに、芸者だろうというようなお心が働きかけたそうでした。俥《くるま》が一間ばかりの前へ来たときに、俥の上の美しい人が鄭寧《ていねい》な会釈《えしゃく》をして通りすぎたので、楠緒さんだったということに気がおつきなされたのでした。
 その次に先生が楠緒さんにお逢《あ》いなされたときに、有《あり》のままをお話しなさる気になって、「実は何処《どこ》の美しい方かと思って見ていました。芸者ではないかしらとも考えたのです」と仰《おっ》しゃられたら、楠緒さんは些《ちっ》とも顔を赭《あか》らめず、不愉快な表情も見せず、先生のお言葉をただそのままにうけとられたらしかったと、懐《なつか》しいお話しがありました。
 夏目先生は、楠緒さんのおなくなりの時に、「あるほどの菊投げ入れよ棺の中」という手向《たむけ》の句をお詠《よ》みになりました。
『硝子戸の中』その章《くだり》をお読みなさった大塚|保治《やすじ》博士は、「漸《ようや》く忘れようとすることが出来かけたのに、あれを見てからまた一層思いだす。」と仰しゃったそうです。嘘かまことか知りませんが、正宗白鳥《まさむねはくちょう》さんが角帽生という仮りの名でお書きなされたものの中に、大学の文科においでなさった頃の博士と、前東京控訴院長大塚正男氏の長女の楠緒さんとは、思いあっておむかえなされた仲のように書かれてあったかと覚えております。そうでなくても女史ほどの御配偶をお先立てなされたお心持ちは、思出さぬようにとするのが無理な諦《あきら》め
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