人魂火
長谷川時雨

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)私《あたくし》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二人|世帯《じょたい》
−−

 これは私《あたくし》の父が、幼いころの気味の悪《わ》るかったことという、談話《はなし》のおりにききましたことです。場処は通油町《とおりあぶらちょう》でした。祖母が目をかけてやっていた、母子《おやこ》二人|世帯《じょたい》の者が、祖母の家《うち》の塀外《へいそと》に住んでいた、その息子の方《ほう》のことです。母親という人は後家で通して来たので、名代《なだい》の気丈なものだったそうですが、ある夜、もうかれこれ更《ふ》けて、夏の夜でしたが、涼み台もしまおうという時分に、その後家の家《うち》の軒前《のきさき》へ人魂《ひとだま》がたしかに見えたと、近所の者が騒ぎだしたのです。私の父も見たともうしました。するとその母親が、息子が留守だと思って馬鹿にすると、大変|家《うち》のなかから怒ったそうで御座《ござ》いました。それでその折は過《すぎ》てしまったのでしたが、翌朝になると祖母の処《ところ》へ、その母親が顔色をかえてきて言うには、昨夜《ゆうべ》あれから間もなく、外で大変な風の音がしたと思うと、仏壇の位牌《いはい》もなにもかも、みんな倒れました、それがいちどきにでしたから気になって、夜の明けるのを待兼《まちかね》てそこらを見ますと、息子の大切にしていた鉢植《はちうえ》――盆栽ものが、みんな倒《たおれ》ている。そればかりならまだしも、大きな音がして戸へもののぶつかった窓から、仏壇へゆく途《みち》のものは、なにもかもみんな倒れているというので、母親は息子の帰《もど》らないのを、大変気にして祖母のところへ来たのですが、息子はいつも夜どまりをしつけているので、まさかとは頼みにもしていたのですが、ところが直《すぐ》近所の料理店《りょうりや》へ、例《いつ》も来る豆腐売りがぼんやりと荷物ももたずに来て、実は昨夜《ゆうべ》、御近所の何《なに》さんに浜町河岸《はまちょうがし》で、私が夜網《よあみ》にゆく道で逢ったところが、なんでも一所《いっしょ》にゆくというので出かけて、だんだん夜が更《ふ》けてから、ふと気がつくと、今までそこに立って網をもっていた何《なに》さんの姿がなくなっている。どうした事かと一生懸命に呼びもしたり、探ねあかしたが、かいくれ行方がしれぬので、まったく死んだのか、それとも自分がどうかしているのかと思って、お宅まで問合《といあわ》せに来たと語ったのから、大騒ぎになったともうします。全く水に落《おち》て死んだので、その日死体があがったと言います。父が見に行きました時、下むきになっていましたが、丁字髷《ちようじまげ》は乱れて、小肥《こぶと》りの肩から、守袋《まもりぶくろ》の銀ぐさりをかけていたということで御座《ござ》います。



底本:「文豪怪談傑作選・特別篇 百物語怪談会」ちくま文庫、筑摩書房
   2007(平成19)年7月10日第1刷発行
底本の親本:「怪談会」柏舎書楼
   1909(明治42)年発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2007年11月20日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
終わり
全1ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング