煎藥
長谷川時雨

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)苦《にが》い

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)十月|一日《ついたち》

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/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いよ/\
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 腸を拂ふと欝血散じ、手足も暖まり頭輕く、肩張りなんぞ飛んでゆくと、三上の友人が漢方醫を同道されて、藥効神のごとしといふ煎藥をすすめてゆかれたので、わたしはそれを一服、ちよつと失禮して見た。
 煎藥を、苦《にが》い顏をして飮み下したわたしは、あれとこれと、今日から明日中にしてしまふ仕事のはかどりを考へてニコついてゐた。頭をはつきりさせておかないことには、卅一日あると思つてゐたのが三十日ぎりで、しかも廿九日だと數へちがひをしてゐた日が三十日といふわけで、二日間のとりかへしをつける氣がまへなのだ。藥は、昨日の朝半服分、夜寢しなに殘り半服、今朝また半服飮んで、さあ來い來たれとばかり、心身すがすがしくなるのを待つてゐると、お晝過ぎから夢心地のやうな水瀉《すゐしや》がつづいて來た、具合が甚だよろしくない。
 はてな、と妙な顏をしてゐるうちに、夜になると、いよ/\度數を増して來た。さうでなくとも幽門は弱く、胃は小さいと宣告されて、秋雨のころを、夏の冷の出るのを毎年恐れてゐる身ではあり、神經性下痢をやるのではあるし、廣島のコレラで神經過敏になつてはゐるものの、何分原因が原因で、わかりすぎてゐて、氣持ちをかるくして、廿四時間を六十時間位に用ひようとした、大慾は無慾に似たりの失敗であつたから、懷爐を入れて身を丸くして寢て見た。
 ところが、半身の重い病人に服させようとしたのであるから、手輕には言はれたが、懷爐ぐらゐで治するやうな、効かない藥ではなかつた。幾度も/\上厠するのを、深夜に氣づかはれまいとするうちに、弱い胃は下から刺戟されて、突き上げるやうになる。痛んでもきて、はげしい胃痙攣とおなじだが、まだしも落付いてゐられることは、手足が冷上らないことだつた。
 明方ちかかつた。
「どれ、見てやらうか。」
 と隣室での身じろぎに、折角全治に近い主人《あるじ》に、風邪でもひかしては大變だと思つて、返事もせず、寢たふりをして、凝と耐忍《がまん》をしてゐると、もう潮時だつたと見えて、好いあんばいに落付いて來た。

 眼が覺めると十月|一日《ついたち》、秋雨が降つてゐる。生れたのは廿八日だとか廿九日だとかの晩だといふが、ともかくわたしの出生は十月一日になつてゐる。例年《いつも》秋澄んだ空の、氣持ちの好い日和が多いのに、降つてゐるなと思ひながら、ぼんやり、床の中から庭の薄の穗の若いのに眼をやつてゐると、隣室では、赤のまんまに白味噌のおつけで、おめでたいことだと笑つてゐる。
 それは、長い病氣のあとの靜養期であつた主人《あるじ》が、思ひがけぬわたしの不時の失策で、朝の身じんまくも獨りでやつて見たし、御飯もひとりで食べて、他の介添も要らなかつたので、ニコニコしてゐるのだつた。そして主治醫の安田徳太郎博士の顏を見ると、
「あたしに友達がよこしてくれた漢藥を飮んで、効きすぎて、あすこに寢てゐる者があります。」
 といひつけてゐる。そして、わたしの方が診察をうけ、お腹《なか》にコンニヤクをあて、藥を服《の》み、休養を申渡された。
 一日はたうとう雨に暮れてゆきさうだ。一昨年《おととし》の十月は、晴れた日がつづいて、空を見ては、東京の上だけでも飛行機に乘つて見たいと言ひ/\したので、朱弦舍《しゆげんしや》荻原濱子が、乘るのなら、わたしもないしよで乘りたいと言つて、それから幾度か、今日はどうだ、明日はどうだときいて來たが、出ようと思ふ日には客があつたり、その日でなければならぬ用事があつて、うまく行かなかつた。去年は主人《あるじ》の病氣でそれどころでなかつたが、十月に、ふと訪れて來た濱子が、なんとなく淋しげだと思つたら、それが最後で、重い病氣《やまひ》になつて、わたしは見舞つてやれないうちになくなつてしまつた。
 こんな面白くもない隨筆を書いては「あらくれ」に申譯ない氣がするが、今の氣持だからしかたがない。
 さういへば、防空演習の夜も雨だつた。その第一夜に、
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空襲に更けしづまりて虫の聲
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 と口ずさんだので、傘雨《さんう》宗匠に、これでも俳句となりませうかと、うかがつて見ようと思ひながらそのままになつてゐる。一ツ書いたらば、どうせ恥の上塗り、やかなも知らぬのだから、ヘボ句といふことにさへもなるまいが、
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防空の霧ふかき夜を出征す
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