かの暇さへあれば、自由に樂しまれることであり、それによつて、夏の生々しさを、どれほどよろこびをもつて迎へることが出來るかわからない。わたしは健康でさへあればといつたが、その健康もまた、それによつて惠まれもする。
 わたしのお友達で、水練に熟達してゐる人に、神近市子さんがある。神近さんは南國の海邊のお生れであり、拔手を切つて泳ぐ颯爽たる姿は、誰の目にも思ひうかべられるであらうが、も一人、平塚明子さんが、水の上の仙境を自由にされることは、あんまり知る人がない。
 ――海面《うみ》に浮いて、空を、じつと眺めてゐると、無念無想、蒼空《おほぞら》の大きく無限なることをしみ/″\とおもふ――
 かつて、そんなふうに話されたことがある。それは、わたしが常不斷《つねしじう》、海にういて、大空を眺めてゐたらば――と思ふ、悠久たる想念《おもひ》と合致した、實行の報告なので、さぞ、さこそ、さもさうあらうと、想像しても樂しかつた。それは、考へれば怖い水の下の深さ、廣さ――けれども、それは、仰ぎ見る空の深さ、大きさにくらぶべきでもない。そして、そこに浮ぶ人間の怖れは、小さな抵抗――生に執着した瞬間からの怖さであ
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