のとりどりの面白さに大變樂しかつた。建築を見るといふことは、並の家のでも、へたな芝居などを見るよりどれだけ心を富ませるかしれない。生活をふかめると思ふのも、自分が建物といふものに趣味をもつてゐるからかもしれない。
二三日前にある新聞の婦人欄を見てゐると、せまい家では臺所の一部を風呂場にして角風呂の蓋の上に食器類を洗ひあげた籠などをおくと、水ぎれに都合がよいと、寫眞まで出てゐたが、ものの利用とか、こんなせまい場處に風呂場のあるなしより、湯氣で困らうなどとより、板の間をあげると流しになるのだなと思つたことにをかしな聯想を呼びおこしたのであつた。
それは、土一升金一升の、下町の目拔きの土地で、震災ずつと前の話だが、角店の店藏と奧藏の間に、僅な空地しかなく、その空地にやつと二間《ふたま》の二階家をはさみ込んだのであるから、階下は隣家の土藏の横腹へよせて通ひ廊下が通り、奧の間と臺所がそれに並んで出來た。
店の者も女中も多くゐる家であつたから、窮餘の策が、通ひ廊下の床下に主人用の風呂場がつくられた。費用はかけたから、細長くはあるが床下は立派に出來た。だが、妻君が入浴となると、勝手口も店からも
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